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【読む楽しみ、書く楽しみ】散文の書き方を考える その12

< 誰にとってでも 一度きりの せっかくの人生 楽しく過ごすように努めたいものであります >

ブログ記事、小説、シナリオ、エッセイ。
散文を書く、書き続けるっていうことについて、いろいろ考えてみる12回目です。


ところで、いつも楽しそうにニコニコしている人っていらっしゃいますよね。
アイソ笑いじゃなくって、防衛本能としての張り付いた笑顔でもなくって、楽しいオーラが出まくっている人。


この人、本当に心の底から楽しいんだなあって思えるてくると、隣りにいるだけで楽しさが伝染してくる感じが、うれしかったりします。


笑顔っていうノンバーバルコミュニケーションで周りの人たちをも楽しい気分にさせてくれる。
知り合いに一人は欲しいタイプですよね。


どんな物にもプラス方向の興味を示して、どういう事にでも楽しみを感じることができて、誰に対しても心からの笑顔を向けることのできる人。
羨ましいかぎりです。


笑う門には福来たるって言いますからね。いつも明るく楽しく笑って暮らしたいものです。
それができている人って、ある種、天才くん、女神ちゃんですよね。

 

 

 


人の幸せっていうのは、人生そのものを楽しめる、どんな物事に対してでもニッコリできることなのかもです。


人は誰でも、自分で食べたもの、飲んだもので出来上がっています。身体だけじゃなくって、気持ち、心もそうなのかもしれませんね。


毎日の食事を楽しむっていうこと。
半ば義務的に咀嚼している出勤前のトースト、っていう感じの食事より、いつもと違うメーカーの食パンを楽しむ。
いつもと同じ淹れ方のコーヒーを無条件に楽しんで、そうできることに感謝する。


そうした食事の方が圧倒的に身体に良いそうですし、朝にそれができれば、その日いち日を楽しく過ごせそうな気になってきます。どんなことでも楽しむことができる才能。


散歩の途中で古い一軒家の庭先に咲く花を見つけて美しいなあって感じ、街路樹の根元にちょろっと咲いている名前も知らない小さな花に可憐さを見つける。
塀の上を歩いてくるネコに笑顔であいさつして、路地いっぱいに書かれた落書きを鑑賞して楽しむ。


どんなことに対してでも楽しむことができれば、そんなに幸せなことはないでしょう。


一つひとつは何でもないようなことなんですが、実現するのは意外に難しいです。簡単にできることじゃない。


時別な才能が必要、なのかもしれません。


幸せとは何か、っていうのは人類の歴史と同じ長さの時間をかけて考えられてきている問いでしょねえ。
言葉を持ってからの歴史ってことになるでしょうけれど。


その答えとなるような、とっても有名な古代中国のことわざがあります。


「一時間幸せになりたかったら、酒を呑みなさい」


ここで言う幸せとは、独りで静かに酒を楽しむ一時間。次第に酔っていく自分を慈しむようなニュアンスを感じます。


コンパであるとか、大人数でハシャグのも悪くはないでしょうし、ふたりでしっぽり、っていう酒の楽しみ方だってもちろんあるわけですが、その楽しみ方は人同士の付き合い、コミュニケーションが主体となった酒の場であって、酒自体を本当に楽しむには、やっぱり独り静かに、っていう方が似合っているように思います。


酒自体とじっくり向き合う。酒そのものを楽しむ。改めて考えてみると、これもなかなか至難の業かもです。
好きな音楽をBGMにして呑むのもいいでしょうし、窓を開けて夜風に吹かれながら月を眺めるっていうシチュエーションはデキスギでしょうか。


ワインの流行がありました。焼酎の銘柄が爆発的に増えました。ハイボールのブームでウィスキーが不足したりしています。
色々こだわりがあって好きな酒が決まっている人も多いでしょうけれど、酒を呑むことを本当に楽しめているでしょうか。


酒を呑むことによって、生きている自分の幸せを感じることができているでしょうか。


簡単ではなさそうですが、酒を呑んで幸せでいられるのは1時間だと、この中国のことわざは言うわけですね。


1日のうち1時間だけであっても幸せを感じられるのであれば、それでOKです、っていう意見もあるでしょうけれど、このことわざには続きがあります。


「三日間幸せになりたかったら、結婚しなさい」


伴侶と出会って、共に暮らす幸せを感じ続けることは難しいっていうことに異論を持つ人はいないと思いますが、何ともシニカルな言い回しです。たった3日間の幸せ、です。


成田離婚っていうのが取り沙汰されたこともありました。
結婚っていう人間関係を楽しむというより、誰かと暮らす日々を有り難がる才能は年年歳歳、地球規模で失われつつあるのかもしれませんねえ。


どうでもいいような、小さなケンカをしょっちゅうすることが、結婚生活を長持ちさせる秘訣だ、ってなことを聞いたことがあります。
まあ、他人同士が出会って一緒に生活していくのは、古代から難しいことだったんでしょうね。


にしても3日間、なんですねえ。


古代の中国人はナカナカに小癪なニヒリストなのです。でも現代では、精神的肉体的に無理をしてまで結婚生活を続ける必要はない、っていう考え方が主流なのは事実でしょうね。
幸せとはなかなかムッツカシイものです。


さらにことわざは続きます。


「八日間幸せになりたかったら、豚を殺して食べなさい」


このひと言はいかにも中国的な感じがします。


今で言うなら、美味しいものをお腹いっぱいに食べられて、そのボリュームが1週間と1日分有る、っていう感じでしょうか。今でも言えることだと思いますが、豚一頭は贅沢なご馳走なわけですね。

 

 

 


ちなみに、ご馳走っていう言葉は、走り回るっていう意味で、迎えた客を歓待する食事を用意するために、足を使い、馬を使い、走り回って食材を集める、っていうことからきているんだそうです。


8日間の幸せは、客のための豚に限られるものじゃなくって、自分、あるいは自分の家族のためのご馳走のことだろうと思われますが、食べるっていうことを楽しむ才能。やっぱりこれは生きる力として、昔からとても大切なものなんですね。


腹が減っては戦は出来ぬ、って言いますが、美味しいものをいっぱい食べてお腹がふくらめば、ごろりと横になって寝てしまうのが幸せです。満足して寝てしまえば、戦なんか、しなくたってよさそうです。衣食足りて礼節を知る、とも言いますしね。


そしてことわざは最後にこう言います。


「永遠に幸せになりたかったら、釣りを覚えなさい」


出ました! 釣り。永遠の幸せの伝授です。太公望ですね。

 

 

仕事としての漁じゃなくって、独りで釣り糸を垂れるイメージですね。


なんとなれば釣り堀であってもイイのかもしれません。釣れれば釣れたでいいし、別に釣れなくともかまわない。
特に釣果を期待していない感じがします。


川でも池でも、海でもどこでもイイ。とにかく静かに独りで釣り糸を垂らす。


目は水面と漂う浮きに貼り付けたまま、耳に入って来るのは自然の音だけ。


波音、樹々を渡る風の音。静寂を把握させるための音。かわず飛び込む、でもイイのかもしれませんね。
何度でも浸れる幸せを、釣りは与えてくれるのだ、っていうことなんでしょう。


釣れなくたってかまわないけれど、釣れればそれは、自分で手に入れたという満足のできる食にもなるわけです。


釣りに関する一家言はアメリカにもあります。
ルアーの老舗メーカーのヘドン創業者ジェームス・ヘドンさんが言ったとされるのが、これです。


「釣りを知らないことは人生の楽しみの半分を知らないことだ」


まあ、釣具屋さんの経営者なわけですから、とても優れたキャッチコピーと捉えることもできそうですが、商売ショーバイした感じの薄い、世界的名言になっています。


中国のことわざは知らないけれど、ヘドンさんの言葉は知っているっていう人も少なくないのかもしれません。
もちろん、誰が言った言葉なのかは知らない、という場合も多いでしょうけれど。


釣りは世界中で人気の、趣味であり、スポーツであり、誰にでも取り組める「楽しみ」で、釣り好きの人口が膨大な数であることは想像に難くありません。


日本でも釣具屋さんがあちこちにありますし、釣りのゲームが人気だったりもしています。釣りの小説もたくさんありますよね。


日本では開高健の「オーパ」をはじめとした一連の釣り小説がありますし、井伏鱒二の釣り好きも有名で、ペンネームに鱒の字をあてていることからも、その傾倒ぶりがうかがえます。釣りに関する作品も多い作家です。


アメリカでの釣りも盛んなようで、小説作品も多くあります。
ブローディガンの「アメリカの鱒釣り」というベストセラーがありますし、「老人と海」という名作を遺してくれたヘミングウェイも大変な釣りフリークだったそうです。


ヘミングウェイも、いくつもの釣り小説を書いていますが、こんなことを言っていたそうです。


「釣れない時は、魚が考える時間を与えてくれたと思えばいい」


なるほど、って思えるのは既に釣りの楽しさを知っている人だけでしょうか。


考える時間。
特に作家っていう職業が釣りとの相性がイイっていうわけじゃないんでしょうけれどね。


皆でワイワイするっていうのも好いけれど、独りで過ごす時間、考える時間っていうものを至上のものとして言い表しているようにも思えます。


開高健は「釣りとは、絶対矛盾的、自己統一である」って言っています。
ムツカシイ言い回しです。


釣りは自分を見つめる自分っていう存在を意識することができる、っていうようなことだと受け止めると、その行為をしていることによって、自分が自分から離れていることに気付く楽しみ方、って言えるのかもしれません。


この楽しみ方の感覚は釣りだけに特有のものじゃはなくって、小説を夢中になって読んでいる時にも味わえますね。


釣りと読書っていう行為に共通しているのは、両方とも当人がジッとしていることです。


本来の自分を取り戻して自己統一しようとする行為は、取り戻そうとする自分が自分の外にいることを意識することから始まるわけで、統一っていう目的に、そもそも反していることになります。


自分自身の存在を感じるっていう楽しみを味わう時は、ジッと静かに動かない方がイイっていうことでしょうかね。


小説世界に没頭しているとき、読んでいる自分は自分じゃなくって、物語りの世界に入り込んでいるはずです。
分離した自分を感じられるのは読んでいる本から目を離した瞬間かもしれませんが、そう感じられるくらい夢中になれる、自分に合った小説に出会うことは読書好きにしか味わえない幸せでしょう。


魚が釣れたり釣れなかったりするのと同じように、読んだ本が面白かったりつまらなかったりすることは、読書の大前提でもあります。


それもまた好し、なんですよね。


さらに言えば、小説を書くっていう行為には、釣りよりも、読書よりも、厳格な意味での独りが要求されます。


読者が夢中になって読んでくれるはずだっていうアイディアを、言葉にしていくとき、まず書いている自分がいて、書いたばかりの言葉を吟味している最初の読み手としての自分、さらに、想定する読者の感覚に思いを馳せる書き手からは完全に独立しているべき自分。


なかなか味わえることではなさそうですが、小説家のエッセイなんかだと、こうしたライターズ・ハイとでもいう感覚についての記述も散見できます。


この場合の絶対矛盾的自己統一っていうのは、自分が無くなってしまう感覚を味わう自分。っていうことになるのかもしれません。

 

 

 


メタレベル。


どの自分も宇宙の中に確実に存在している確固たる自分。


釣り、読書、執筆。幸せになる方法。静寂、孤独、思考、分離、満足感。


方法論として知っておくのは悪くないことだと思います。一回の実行で永遠の幸せを約束しているものじゃないですね。そこもまた大事。


幸せを感じたいときにいつでも実行できる方法。


「一時間幸せになりたかったら、酒を呑みなさい」


「三日間幸せになりたかったら、結婚しなさい」


「八日間幸せになりたかったら、豚を殺して食べなさい」


「永遠に幸せになりたかったら、釣りを覚えなさい」


そして


「読書の楽しみを覚えなさい」


「執筆の楽しみを覚えなさい」


最後に18世紀イギリスの詩人、サミュエル・ジョンソンの言葉を。


「釣り竿は、一方に針を、もう一方の端に馬鹿者を付けた棒である」


自分なりの方法で、人生を楽しみましょう。

< いろいろ考えるです >
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