< 童子とか 小僧とか 滅びつつあるような日本語を考えてみる >
「小僧」っていう言葉は今でも言う人はいますよね。
ウチの小学3年生はサッカー小僧で、いつでも真っ黒にしてきて洗濯、大変なのよ。
とかね、言ってるのよく聞きます。
これね、子供に対して小僧って言ってる分には、なんともない使い方だと思うんですけど、大人に対しても使いますよね。
ウチのはね、イイ年かっぱらってるくせに、いまだに野球小僧でね、困っちゃうのよ、バカみたいでしょう。
なんてね、立ち話していらっしゃるオクサマ、いますよ。
愛おしさを表現する言い回しなんでしょうね。意識しているかどうか別にして。
江戸の義賊として現代まで名前を残している「ねずみ小僧」っていうのも、小僧っていうからには庶民に憎からず思われていた盗賊だったのかもしれません。
ねずみ小僧はね、義賊なんかじゃなかったらしいよ、って話も聞きますが、施し、みたいなことをしていないとしても、悪徳と思われたような大店(おおだな)から盗みとるっていうのはホントだとすれば、それでもう、正面切って応援するっていうんじゃないけど「小僧」って呼び習わすってことなんでしょねえ。
今となってはよく分からないけど、そういうもんだからって何も疑問を感じないっていうこと。意外に身近に有るような気もします。
お正月の初もうで。行きましたか?
新年の平安を祈願するってことで、神社に行って、がらんがらんってやって、パンパンってやりますよね。
二礼二拍手一拝。
これ、特に決まりはないんだそうですね。っていってもその神社ごとには、こうしてちょうだいねっていうのはあるんだろうと思いますけどね。
二礼二拍手一礼っていうところもあります。
実際の動きに何も変わりはありませんっていう人もありますし、最終アクションの一拝っていうのは、二拍手目の合わせた手をそのままに「拝む」
いやいや、拍手の手は降ろして「礼」をする。
あのね、拝っていうのは深いお辞儀のことだよ。っとかね、訳知り顔に言っている人もいます。
その人が神社の人だったら、あるいは神社の人から聞いたっていうんであれば、そこではそうすべきでしょうけれど、どこの神社でも同じってわけじゃないみたいですよ。
出雲大社では四拍手だそうです。
神道にもいろいろ種類があるってことですね。
詳しい人なんて、そんなにいないと思うんですけど、まあ、神社ではそうするもんだよ、ってことでパンパンするわけです。
なんで? っていわれたって、神社の人だって困るっていうようなもんだと思いますよ。
だって、むか~し昔からそう伝わってきていることなんだから、っていうのがせいぜいでしょう。知らんけど。
文書が残ってる、っていったって、その儀式がその文書から始まっているってことじゃないでしょうからね。
証拠だって言ってるその文書が書かれるずっと前から、行動があるんだろうと思います。
でもまあ、伝説とか迷信ってやつじゃなくって、今でも続いている日本人の行動っていうものの1つが初もうで、ってことなんでしょう。
なんで? っていうのは「天子は南面す」ってことで、御所の正面が南向きだからだそうです。
天子様。つまり天皇が着座するのは南向きなので、天皇の左側が左京区、右側が右京区ってことで、ごく自然なネーミング。
今の地図は北を上にしてありますからね、右左が地名とは逆になっているだけのことなんでした。
その左京区っていうのは御所の北東、鬼門方向になりますね。
その鬼門を抑えているのが「比叡山」で、平安時代の初期には「伝教大師 最澄」が「延暦寺」を開いています。
御所から比叡山へ向かう途中にあるのが「鬼の子孫」が住むっていわれている「八瀬(やせ)」地域です。
今は観光地になっていますんで、行ったことのある人も少なくないでしょう。
令和現在の住所としては八瀬花尻町、八瀬秋元町、八瀬近衛町、八瀬野瀬町の4つの町からなるエリアですね。
この八瀬地域に住む人たちを「八瀬童子」って呼ぶんですよね。
なんで童子って呼ぶようになったのか。
定説みたいに言われている説も幾つかあるようですけれど、要は昔からそう呼ばれているから、ってことなんだと思います。
説明できないほどむか~し昔から、そうだったから。
鬼の子孫っていうのがどこから出てきた謂れなのか分かりませんが、この八瀬童子たちは、とくに声を上げて否定していないっていうところが、なにかイワクありげなミステリアスなところです。
その始まりが延暦寺の雑役を担うところからっていう説も、説得力としては弱いように思うんですよね。
お寺の仕事、おもに雑役を担った人たちは、髪を結うことをしなくて、ザンバラ髪のままで、いわゆる子供のような恰好だったので童子っていうんで、八瀬童子って呼ばれるようになった。
っていう定説の1つがあるんですが、どこのお寺でもそうだったんでしょうかね。
奈良時代辺りからお寺の世話をする人たちっていうのは、職業として成り立っていて「神人(じんにん)」って呼ばれていたらしいですよね。
童子、イコール、神人なんでしょうか。
延暦寺が開かれたのは788年だそうですが、その前には八瀬童子っていなかったんでしょうか。
国家総鎮護の大きなお寺が出来たんで、麓の住民が童子になったんでしょうか。
それとも、そういう職能集団が移住させられてきたんでしょうか。
いろんな可能性が考えられますよね。
ここで1つ気になることがあります。酒呑童子です。
八瀬童子と酒呑童子。
童子っていう呼ばれ方が一緒なだけじゃん。っていうことではあるんですがね。
こういう話があるんです。
酒呑童子は元々比良山地っていう比叡山のずっと北の方に住んでいたんだけれども、延暦寺が出来たんでそこに居られなくなって、849年から大江山に移り住んだっていう話です。
この話からしますと、酒呑童子って1人の鬼、じゃなくって集団だって思えますよね。
しかも延暦寺が出来たからっていっても、そこから出ていくまで60年も経ってますよ。
もちろん、大江山に棲み処を定めるまで方々を流浪していたって可能性もありますけどね。
大江山は比良山地から直線距離で西へ60㎞ぐらいでしょうか。
酒呑童子は995年、金太郎たちによって「退治」されています。
150年近く大江山で暮らしていたことになりますね。大江山は金属鉱脈が豊富な山なんだそうです。
八瀬童子は延暦寺と揉めながらも時の権力者によって守られつつ時を過ごしていきます。
八瀬童子は比叡山に入って木を切ったり、山菜を採ってもイイよっていう入会権を延暦寺からもらっていて、生活の糧にしていたってことらしいんですが、延暦寺の領地と八瀬地域の境界線について、しゅっちゅう争っていたっていう記録があるんだそうで、お寺の雑役をしているっていっても忖度無し! っぽいです。
今からでは想像もできないようなポジションっていいますか、しっかりと独立を保っていた集団のように思えますね。
八瀬童子の存在を現在でも確認できるのは、5月15日、京都の「葵祭(賀茂祭)」です。
祭りの行列をコントロールするような役割で八瀬童子が参加するっていうのが通例らしいんですね。
参加装束は「輿丁(よちょう)」っていう天皇の輿を担ぐ役割の者の正装。
鬼の子孫は天皇の輿を担ぐのが仕事なんですね。
なんでそういうポジションを得たのか。
延暦寺が開かれた平安時代が遠くなって、1181年に平清盛が死んじゃうと、10年経たないうちに時代は鎌倉時代に入ります。
その鎌倉幕府を滅亡させたのは後醍醐天皇。
1331年の元弘の乱で、1度、比叡山を拠点にしようとして失敗している後醍醐天皇は、鎌倉幕府が滅びたあと、建武の新政を経て足利尊氏と対立します。
官軍の楠木正成が討ち死にして、新田義貞が敗走すると、都に入って来る足利軍を避けて鏡、剣、勾玉の「三種の神器」を持って比叡山に逃れますが、前の失敗に凝りている後醍醐天皇は八瀬童子たちの担ぐ輿によって、無事辿り着きます。
この時の働きを評価されて、八瀬童子は天皇家に仕える役割を持つに至ったってことらしんですね。
だけど、どうですかね。
命がけの逃避行に、たまたま八瀬童子を指定したんでしょうか。
一度失敗している後醍醐天皇です。
あらかじめ八瀬童子たちとのつながりを密にしていたんじゃないでしょうか。
天皇がたまたま、近くにいた集団を緊急に呼び寄せました、っていうより、その前から天皇家と特別なつながりを持っていた集団が八瀬童子だったんじゃないでしょうか。
天皇を国の親として、その子供、童子、ってことはないんでしょうかね。八瀬童子。
さらに言いますとですね、楠木正成っていう人も神人、つまり童子だったっていう話もあるんですよね。
奈良時代から天皇家のお世話をしてきた家柄だったっていう。
天皇家と八瀬童子のつながりは、実際に八瀬童子の特権を認める内容の綸旨(りんじ)の書面が複数遺されているそうですし、明治天皇、大正天皇の大喪の儀にも参加しているんですね。棺を担いでいるんです。
時代が進んで、戦後、その任を解かれたとはいえ、昭和天皇の時は棺は車で運ばれたんですが、八瀬童子は京都から東京に来て、ちゃんと大喪の儀に参加しているんですよね。
今とは全く様相の違う日本の権力構造の歴史を、八瀬童子っていうポジションを崩さないで天皇家のすぐ傍に居続けている鬼の子孫。
権力に寄り添ってきたというんじゃなくって、天皇家に寄り添ってきたわけですよね。
もう時代が違うからっていうことは、宮内庁辺りから意見されているらしいんですが、八瀬童子たちのアイデンティティに変化はないみたいです。
滅ぼされた酒呑童子。寄り添うことによって天皇の敵に滅ぼされた楠木正成。寄り添い続ける八瀬童子。
八瀬童子って伝説じゃなくって、今の京都にいるんですからね。日本もなかなかです。
歴史は勝者が作る、書き残すってことを考えれば、むか~し昔のことは何も確定なんて出来ないのかもしれないです。