ウキウキ呑もう! ニコニコ食べよう!

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ーー 居酒屋トークの ネタブログ ーー

【おひとりさま市場】とか言ってますけど 突然出てきたわけじゃないはず

< 1人で飲食 1人で旅行 って 男女に限らず 昔から普通でしょ >

「あのねえ、ファミレスに多いんですけどね」


って、話になりましたですよ。
カウンターで何回か顔を合わせたことのあるオネエサンです。日本酒ファン。


その居酒屋さんでは、日本酒を注文すると、銘柄ごとに5勺から出してくれて、好みの猪口を選べるっていうシステムです。
ま、5勺っていう言い方はしていなくって、1号徳利、ちょっと変わった形の、この徳利もいろいろあるんですが、こちらは客が選べません。お店の選択。その徳利に「半分ぐらい」って言っておりますね。


半分、ぐらい、です。イイですね。


2号徳利もありますけど、こっちは普通のそっけない徳利です。何故だ方は知りません。


選べる方の猪口は瀬戸物とガラスと、形だけじゃなくって素材からしてなんかバラバラです。それでもって、いっぱいあるんです。


プラスティックの大きめバケットにごろごろと入ったのを、ハイって差し出して、客が、え~っと、って選ぶシステム。


次の注文で日本酒の銘柄を変えれば、また猪口も違うのを選べます。

 

 

 


そのオネエサンを覚えていたのは、いつも「半分ぐらい」の徳利を2回か3回お替りして、店の女将さんと楽しそうにキャッキャ言いながら猪口を選んでいたからなんですね。


結局1合以上呑むんですけど、銘柄をいくつかハシゴするのが好きなんでしょねえ。
むふふな酒呑みなんであります。


「これカワイイですね」


「色合いがイイわよね。これで吞んだら辛口が引き立つわよ」


「ワアアなるほど、じゃこれにします、これで吞みますう」


明るい酒なんです。


テーブル席もある店なんですけど、見かけるときはいつもカウンターでおひとりさまですね。
目顔で「どもお」ぐらいの挨拶をする程度のお知り合い。
ま、そういう酒呑みは少なくないです、老若男女ですね。


で、その日はですね、店に入るタイミングが一緒になったんです。
「あ、どもお」
「こんばんわあ」
ってな感じで一緒に店に入って、そのままの流れで女将さんに隣り合わせたカウンター席に案内されましたですね。


「2人とも、知ってるわよね」
って女将さんが言うんで、2人とも顔を見合わせて頷きながら、
「顔はよく合わせますね」っとオネエサン。
コックンコックンして「いつも日本酒ですよね」って言うと、
「はい。いつも焼酎ですよね、ロックですよね、ね」
って感じで、にっこりお辞儀をしながら隣り合わせに座りました。


ま、その後はいつものごとく、それぞれ、ひとり呑みの時間の始まりです。


で、オネエサンはいつものごとくで猪口選びでワアキャアやってましたです。
そです、最初は特に話をしていたわけじゃなかったんですけどね。


注文した「そば刺し」が出て来て、オネエサンの目の前には「カジキフライ」でしたね。


カウンターの左手の壁、天井近くには大型テレビが据え付けてあって、音声無しでスポーツチャンネルが流れています。


女将さんによれば、
「照明代わりなのよ」
だそうです。


BGMはスロージャズ。天吊りのボーズが控えめな音量を店内に充満させています。


いつものごとく、日替わりのアテなんかについて、大将、女将さんとあーだこーだ、ちょこっと話しながら吞んでいますと。


「あのう、話、してもイイですか?」
って次第になったんでありました。


お断りするような理由は何もありませんですからね、はあ、なんでやんしょ、ってなりました。
その日のオネエサンは1合を空けて、同じ銘柄を「半分ぐらい」お代わりしてました。
なんかね、愚痴りたい日だったんでしょうかね。話始めたらすぐに前からのオトモダチみたいな感じになれました。
酒呑みのイイところでしょうかね。


女が1人で気兼ねなく呑める店って、少ないんだそうでございまして、ま、その話題はわりによく聞きます。


「別に女がひとりでお酒呑んだってイイじゃないですかねえ」
はい、なにも異存はございませんよ。
っていうか、最近はけっこう普通に見かけると思いますけどね。


「そうやって馴染みになるまでが大変なんですよ」
ふむふむ、なるへろ。


「だいたいですね、女がひとりで店に入るときってな~んかチェック厳しいんですよ」
ってことで、冒頭のセリフになったんですね。


「おひとりさまですか? って、見りゃ分かるじゃないですかね。なんでわざわざ聞きますかね」
ふむう、それ、男がひとりで入っていっても同じセリフで聞かれますよ。


「コロナのだいぶ前からですよね、おひとりさま、なんて言われ出したの」
話のつながりがよく見えない感じも致しますですが、上野千鶴子の「おひとりさまの老後」が出たのって2007年ですから、そのちょっと前ぐらいからですかね。

 

 

 


でもまあ、メディアが取り上げなくたって、昔から普通におひとりさま女子っていましたよ。
数が多いとは言えないとしても、ラーメン屋さん、牛丼屋さんにもいました。
居酒屋さんなんかだと、もっと多く見かけました。


いつの頃からか居酒屋さんでは「女子会」ってやつをよく見るようになりましたね。
それぞれ、おひとりさまで呑みに来ていて、顔見知りになって、そういうおひとりさまが集まっての女子会っていうのもあるみたいですよね。


昔からいたんです。おひとりさま。


メディアがおひとりさまに無頓着っていうか、取り上げようとしなかったのは、やっぱりスポンサーの関係とかもあるんじゃないでしょうかね。


それまでの飲食店は、大型店舗に大勢をいれて、ワイワイやって欲しい、大量消費でがっぽりお支払いをして欲しいっていうスタイル。
そういうスポンサーばっかりでしょうから、おひとりさま消費を促すようなニュースソースは意識的に避けていたかもですよ。売り上げが下がっちゃうような感覚。


ま、そういう商売ずくの理由とは関係なく、おひとりさまって言われるのに抵抗があるっていうのはよく分かる気もしますです。
とくに女のおひとりさまですね。


「女が1人で?」っていうようなマイナスな感じに受け止めるような風潮、みたいなものがありましたもんね。
今でもいることは居ますからね。


「ネエチャン1人なの、珍しいね」
居酒屋でカラカイ気味に声をかけるオヤジ。そういう人は何だか決まって「ネエチャン」って言いますね。


そういうのが居るから面倒くさい、っていうのはあると思います。女の人にとってはね。店に入り難い。
「ニイチャン1人なの」とかいうのは聞いたことないですもんね。


会社の忘年会を欠席するっていう若者が増えてきているっていうのも、そういう、無神経っていうか、頭の中がステレオタイプの知識しか詰まっていない、思考停止のオヤジがウザイから、っていうことだと思います。

男にしてもメンドクサイです。


それでも、ここ10年ぐらいは減ってきているんじゃないでしょうか。思考停止オヤジ。
そういうノンデジタルなオヤジはどんどん引退していっているように感じます。
オヤジってかジジイですかね。


オネエサンも嫌な思いをしてきたってことなんでしょうけれども、今は普通にいますよ、女のおひとりさまって。4そんなに気にしなくともオッケーじゃないでしょうか。


それとウィズコロナって事情も相まって、「おひとりさま市場」なんて言葉も言われるようになってきていますからね。
これからは、ますます女のおひとりさま吞みも気兼ねなく出来るようになると思いますです。


お行儀、っとかね、自分なりでイイじゃないですか。気取る必要なんてないです。だって、おひとりさまなんですから。


ひとりカラオケなんて、べつに練習って言うんじゃなくって、歌うことを楽しむために、おひとりさまでやるんでしょうし、はい、拍手~! とか、ウザイです。ってことですよね。
ひとりカラオケ専用の部屋もどんどん増えているらしいです。


商売のスタイルが変わってきている、っていうか、これからが変化の本番。


ひとり焼肉の店も話題になりましたけど、今までは4人席のテーブルに、おひとりさまっていうんじゃ、なんとなくね、消費するボリュームもグループよりは少ないわけだし、っていう気遣い。

 

 

それをしなくってイイように、カウンター席で、おひとりさま用の大きさの焼き網を設置してあって、煙りもしっかり一ずつ吸い込みますよね。
しっかり定着したみたいですよ。


経営側も、大勢でワイワイやってもらうのもイイけれど、おひとりさまは、ウダウダ長居しないし、回転率が上がればむしろ効率がイイっていうふうに考え出したのかもですね。
でもまあ、ひとり焼肉って郊外ではあまり見ないかもですけどね。


居酒屋さんには昔からおひとりさま鍋ってありましたよ。


前によく行っていた居酒屋さんでは、酒は呑まないんだけど、そのおひとりさま鍋だけを食べにくる女の人が居ましたです。おひとりさまでしたね。
〆をご飯にしたり、うどんにしたり、時には焼きそば用の麺で〆たりしていましたね。
こういうのは、女のおひとりさま、とかいうんじゃなくって、老若男女問わず楽しめるスタイルですよね。


もっと女のおひとりさまのために、っていう方向で考えるんじゃなくって、男だからとか、女だからとか、そういう区別が邪魔くさいだけなんだと思いますよ。


おひとりさまで何でもやりたいことをやってみればイイっすよ。男でも女でも。


ただね、不思議な感じでしか捉えられないおひとりさま活動もあります。
ソロウェディング」
なんやねんそれ。


シミュレーションとかしちゃったら本番の醍醐味、ノーなってまうやんか。
って言ったらですね、日本酒好きのオネエサン。


「あ、それはですねえ、とうぶん予定が無いからやるんだと思いますよ。それか、若いうちにウェディングドレスを着た自分っていうのを撮っておきたいっていうか」


ん~。そゆもんですか。


「あ、あと半分ぐらいくださあい」


一日に吞むのは最大で2合か、2合5勺までって決めているんだそうでありました。

 

 

 


あのですね、居酒屋さんとかで見かける、女のおひとりさま吞み。その呑みっぷり。
オヤジたちより、確実にツオイ感じがします。最後までシャンとしてますしね。
って最後って、何が最後なのか知らんけど。


そういえばオヤジギャルとか、最近聞かなくなりましたねえ。
言わなくなっただけなんでしょかねえ。

 

おひとりさま呑み、これ、基本です。

 

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【人智を超えたもの】デジタル時代の魂魄を考える

< デジタルネイティブスマホで調べられないものでも信じるか >

コロナ禍のストレスは、我々のどこに溜まっていくんでしょうか。


コロナ前と同じように振る舞っているつもりでも、どこか気になる部分があって、ふっと客観的に自分を見てしまっていることに気付かされることって、あったりしませんか。
ゴールデンウィークっていうリクリエーションでも大手を振ってキャピキャピ動けた人は少なかったように感じます。どこか他人の目を意識したりとか、ね。


コロナ自警団とか、マスク警察とか、コロナ禍の初期の頃に取り上げられたトピックがありましたが、日本人の真面目さなのか、2年3年と時が流れるうちには、誰かに非難されるような行為行動をする人は稀ですし、知らず知らずのうちに自分で自分を制限しているようなことは、誰にでもあるのかもしれません。


運動不足だとかいう身体の問題もありますけど、どうもね、精神的な何か、気持ちのどこかが疲労しているっていうことは充分に考えられますね。ホントはそっちの方が大事なことかもしれないです。

 


今は、スマホ1つあれば、すぐに何でも調べられますし、そこにはフェイクも溢れている世界です。
でもまあ、情報の取捨選択っていうのにはずいぶん慣れてきているっていう現状があるように思います。
ただね、インターネット世界が何もかもを解決してくれるわけじゃないですよねえ。


っていうか、「専門家」だって知り得ないことの方がまだまだ多いような人間生活ですからね。


「魂魄(こんぱく)」っていうのがあります。このところは、ちっとも聞かない単語になっていますでしょうかね。
ちょっとクラシカルな響きを感じる言葉ですが、古い時代の中国から伝わってきた言葉らしいです。


そんな魂魄とかいう古臭いの、現代人の精神状態とどういう関係があんねん? って思うかもですけど、これまでの人類が考えてきた「人智を超えたもの」の存在を考えてみるのも、頭の中、気持ちの底を動かすっていう意味で一考かと思うわけです。


道教から出てきている言葉らしいんですけど、魂魄って1つの言葉として捉えているのが普通だと思います。
でも「魂(こん)」と「魄(はく)」っていう2つの「気」があるっていう考え方なんですね。


「魂」は人間の精神を支える気で、陰陽の陽に属していて、天に帰るべきもの。


「魄」は人間の肉体を支える気で、陰に属していて、地に帰るべきもの。


とされています。


この捉え方ですと、人間は魂魄によって精神と肉体のバランスをとっていて、精神は天に、肉体は地に帰るものだっていうことですね。
ま、納得できる感じでしょうか。


儒教での捉え方として魂は天に帰って「神」になって、魄は地に帰って「鬼」っていうふうに名前を変えるんだそうです。


この辺りの考え方って、人間はどこから来てどこへ行くのかっていう永遠の謎にも答えの道筋を付けてくれているのかもです。
科学的じゃないっていう批判もあるでしょうけれど、科学が人間の気持ちも含めたこの世にとって万能であるはずもなく、人智を超えたものっていうのが在った方が、納得出来ることもあるように思います。


「神」という存在は人間の精神の集まりだっていう考え方には、東洋思想の根源的なものも感じます。


そして、「鬼」です。鬼っていう存在をどう捉えるかは、まさに諸説紛々とあるんですが、人間の肉体の気、魄が地に帰って集まったもの。


だとすると、神も鬼も、元々は人間から出発している。
ふふうん、って考えさせられちゃいますねえ。


現実生活と人智を超えたもの、っていうのは、魂魄と鬼神っていう世界観と対になっているっていう古代の考え方にも、なかなかの説得力があるように思います。
別々のモノのようであって、実はつながっていて、鬼神魂魄の根源は、この世に存在していた我々自身だってことですもんね。深いかもです。

 


この魂魄に対する考え方には長い歴史があって、捉え方にもいくつかあるみたいなんですが、民間に浸透しているっていう「三魂七魄」っていうのがあります。


魂には3つ、魄には7つの種類があるってことですね。


この中にもいくつか説があるってことなんですが、代表的なところを見てみます。


三魂とは「天魂」「地魂」「人魂」


人間が死ぬと「天魂」は天に帰り、「地魂」は地に帰る。そして「地魂」は墓場に残るっていう考え方。
なるほど、お墓にその人の魂は残っているんですねえ。


七魄とは「喜び」「怒り」「哀しみ」「懼れ」「愛」「憎しみ」「欲望」


ふううむ。鬼の7要素っていう捉え方も出来るのかもですけど、これ、そのまま生きている人間そのものでもありますねえ。


でもって、伝統的な中国医学ではまたちょっと違った捉え方をしているみたいです。


魂とは、人間のキモに宿っていて、その人を成長させていくもので、心を制御する働きをする。
魂の働きが強くなり過ぎると、その人は怒りっぽくなるんだそうです。


魄とは、その人が産まれながらに持っている身体の設計図で、五感の働きを成長させる働きがある。
魄の働きが強くなり過ぎると、物思いにふけるようになるとされているんですね。


魄が弱くなる、落としてしまうことを「落魄(らくはく)」と言いますよね。落ちぶれてしまうっていう意味ですけど、魂魄っていうのは、なかなかにやっかいな存在なのかもですね。


デジタルの世界になって来ていても、スピリチュアルっていうジャンルは相変わらず注目を集めている感じもします。


デジタルテクノロジーがますますウェアラブルな環境になっていっても、サイボーグになっちゃうわけじゃないですからね、今現在、精神世界っていうのを少し意識してみるのって、意義は小さくないように思えるんですよねえ。

 


俗信っていいますか、昔から言われ続けてきている禁忌ってありますよね。
北枕で寝てはいけないとか、家の敷居を踏んではいけないとか。


北枕に関しては、お釈迦様の入滅が北枕だったので、極楽往生が北枕。なので、死んじゃう予定もないのに北枕で寝ちゃうとお迎えが来ますよってことなんでしょうね。
でもまあ、今はそんなに気にしている人もいないかもです。


家の敷居については、例えば玄関の敷居なんて、昔の家屋が保存してあるのを見ると分かるんですが、敷居自体がもの凄く太い木材で、15センチぐらいでしょうか、高さがありますね。
その敷居を境にして、外と内ってことになります。


つまり敷居はその家にとっての結界であって、そこには神が宿る、っていう考え方みたいですね。


で、その高さのある敷居を跨いで、中に入ると土間になってますね。
へっつい、って言って、昔のかまどがあります。柱も、梁もかなり太い木材を使ってあるんですけれど、へっついの脇の柱には鬼の面が掛けてあります。


火を鎮めてくれる火伏の「神」として「鬼」を祀っているんですね。

 

鬼っていえば、決して仲良しこよしってわけじゃない、人間との関係値。


魂魄っていうのを調べてみたら、中国の考え方で神と鬼っていうのが出て来てふむむって思ったんですが、日本の生活の中でも普通に神と鬼っていうのは共存していたのかもしれませんねえ。


近代化、現代化して、生活はどんどん便利になってきていて、衛生的な環境になっているんですけど、そんな中に突然やってくるウイルスがいたり、アトピーだとか、花粉症だとか、昔はこれほど一般的じゃなかった症状に悩んでいる人が多くなってきてしまったっていう事実があります。


体内にたくさんの菌を抱えている人間ですが、周りの環境を過剰に消毒している向きもありますからね。
無菌状態になってしまうと、新たな細菌が出てきたときに決定的に弱いっていうことになってしまうのかもです。


ま、だからといって雑菌にまみれて生活するっていうのは危険でしょうけどね。
菌と接することによって、免疫力を保っているっていう体内環境っていうこともあるのかもです。


そして何よりも、この先のウィズコロナって言われている生活の中で、意識して大事にしたいのが精神です。


身体の不調よりも気付きにくいのが精神の不調ですからね。


平気ヘーキって思っていても、実はけっこう、やられているのが現代人だって言われていますもんね。


別にスピリチュアルな方法に頼るってことじゃなくって、例えば魂魄っていう、自分の中にあるはずのものを意識して、魂を天に通じさせる気持ちになって、魄を地に通じさせる気持ちになって、深く静かに呼吸をして、今一度ニュートラルな自分を意識してみたいところです。


人智を超えたものが、地球上の生き物たちと関わっていることを信じながら。

 

【あはれ】【天晴】いとをかし

< 紫式部の「あはれの文学」 清少納言の「をかしの文学」 >

インスタ映えする進化系スイーツと一緒にカシャッ、とかするのがサイコーな瞬間だよねえ、っていう現代女子にも通じるのかどうか想像できませんが、なんにせよ感動っていうのは、人間生活を充実したものにしてくれる大事なものですよね。


昔っからそうなんですよね。特に女子がね、萌えたがり、なのかもですよ。


♪お菓子食って涙が出そう


とか、今回はそういう話じゃないです。ん? そもそもお菓子じゃなくって、可笑しの方ですか。そかもです。


でも世田谷区の九品仏には「いとをかし(It Wokashi)」っていうオシャレな大福屋さんもありますよ。

 


ま、本題です。
平安時代の中頃の女性、清原諾子(きよはらなぎこ)さんって知ってます?
966年ごろのお生まれだそうで、亡くなったのは1025年ごろってされているチョー有名人です。


もう1人。同じころの女性、藤原香子(ふじわらかおりこ)さん。
970年ごろのお生まれで、亡くなったのは1020年ごろ。


共に生没年がハッキリしていないだけじゃなくって、この本名も推測レベルなんだそうですよ。
1000年も前のことになるとそんなもんでしょうかね。


清原諾子さんの世に知られたお名前は「清少納言
少納言って言ってもご本人は無冠だそうで、誰か身内に少納言っていう官職に就いていた人が居たんでしょうね。
枕草子」が完成したのは1001年ごろじゃないかって言われています。清原諾子さんが30代前半に書いた物だったってことになるわけです。


で、藤原香子さんの方はって言いますと、はい、「紫式部」ですね。
こちらも同じく、ご本人が式部っていう官職に就いていたっていうわけじゃないんだそうです。
源氏物語」の方は1008年ごろには完成したらしいです。
こちらも20代後半から30代前半に書いた物ってことなんでしょうね。


時代っていうのは不思議なもので、同じような才能を同じような時期に集中して登場させることが、時として見られますよね。
その時代の空気感っていうんでしょうか、人智を超えたチカラが働いているような感じさえしてしまいます。


清少納言さんと紫式部さんの職場は近いっていえば近いわけで、仲が良かったとか悪かったとか、そういう話をでっち上げている向きもありますけど、平安時代の女性たちって、外出することがほぼ無かった、っていうか、花見だとかのイベントの時にちょろっと出歩く程度だったっていう話もありますからね、一度も顔を合わせたことなんて無かった可能性の方が高いんじゃないでしょうかね。知らんけど。

 


言ってみればおふたりとも、当時の身分社会の中のエリートキャリア女性です。


清少納言さんは、一条天皇の皇后、藤原定子(ふじわらていし)に私的に仕えていたそうで、定子が若くして亡くなってすぐ宮仕えから離れたそうです。


この一条天皇の時代は藤原家の権力争いの激しかった時期で、なかなかに複雑なんですが、長徳の変の影響で、定子は妊娠したまま出家しているんですね。
オオゴトでっせ、これは。


長徳の変の裁きが落ち着いた時点で、定子は出家の身でありながら再度、宮中に入るんですね。
この間ずっと清少納言さんは定子に仕えていたみたいです。


で、出家しているっていうことも関係しているのかもですが、定子がいるにもかかわらず、一条天皇は2人目の藤原彰子(ふじわらしょうし)を中宮に迎えます。
どういうのか、そうせざるを得ないような、そういう藤原一族の権力争いの結果なのかもしれませんねえ。


皇后も中宮も、どっちも天皇の奥さんの呼び方なんですが、彰子が宮中に入る前までは定子が中宮って呼ばれていたらしいんですが、彰子が入って来たんで彰子が中宮になって、定子は皇后って呼ぶようになったみたいです。


その彰子の家庭教師の役割を務めていたのが紫式部さんってことなんですね。


もちろん部屋っていうか、住んでいた建物が違いますからね、同じ一条天皇の奥さんに仕えているとはいっても合う機会って、そもそも作らないように周りがしていたんじゃないでしょうかね。またしても知らんけど。


でもって、平安中期に著された、日本の誇るこの2つの作品なんですが、紫式部源氏物語は「あはれの文学」と言われているのに対して、清少納言枕草子は「をかしの文学」って言われています。


ここで言われている「あはれ」と「をかし」って、ほぼ同じ意味ですよね。


もののあはれ、っていうふうに使われる「あはれ」は読みとして「アワレ」って発音します。
ま、この部分に違和感のある人もいないでしょうけど、情感的にしみじみとした趣があるっていう意味で使われます。


一方のいとをかし、って古典の中でしか使われない感じの「をかし」ですが、こちらもまた、趣があるっていう意味では同じなんですが、「あはれ」に比べて、感覚的、明るい感じの趣でしょうか。


似ているけど違う。なんかね、才女っていわれる人にもタイプがあるってうのは今も同じですよね。


古典はねえ、苦手ですねえ。たぶんおそらく、中学時代のセンセが悪かったせいですよ。って完全に他人のせいにしちゃいますけど、同じ思いの人も少なくないんじゃないでしょうか。


そんな人がけっこういるっていうんで登場してきたのが「桃尻語訳枕草子」ですよね。
でもって「窯変源氏物語」っていうのもあります。
どちらも橋本治さんが現代語として読みやすく訳してくれていますが、源氏の方は原作から離れて源氏さんの語りで訳されています。


なので、この現代語訳からは、清少納言紫式部2人の性格の比較なんて出来ないんですけど、個人的な感覚として、枕草子は読めましたけど、源氏物語は3回チャレンジして、ちょこっと最初の方しか読めていません。


そういうトラウマがあるんで、「桃尻語訳枕草子」は読みましたが、「窯変源氏物語」は手を付けていませんです。
長いしねえ。


ところで「をかし」は古典的な意味での「趣のある様子」として使われることはなくなって、「可笑し」ってニュアンスでしか使われませんよね。今はね。
ことばの意味の変遷って不思議です。


なんでそうなったのかっていうのは、いろいろ説はあってもよく分かっていないっていうのがホントのところなんじゃないでしょうか。


もう1つの「あはれ」もやっぱり古典的な意味での「趣のある様子」としては使われませんね。

 


平安時代の後期にたくさんの歌を残した西行さんなんかは「もののあはれ」っていうのをとても大切にして、自分の歌の中にも「あはれ」はいくつも出てきます。


でも、今現在では「哀れ」って書いて、可哀想ってニュアンスで使われています。
カワイソウって漢字の中に入ってますもんね、哀って字が。


2つとも「趣のある様子」っていう似通った意味だった「をかし」と「あはれ」は「可笑し」と「哀れ」っていうほぼ正反対のニュアンスになってしまったんですね。不思議です。


ただですね、「あはれ」には「哀れ」っていうニュアンスの方じゃなくって、もう1つ違った意味で、今でも使われて残っている言葉があるんですよ。


元々「あはれ」は「しみじみとした趣」っていうニュアンスでしたよね。決してマイナス方向の意味じゃなかったわけです。
趣があってイイねえっていうことを伝えるのに、その気持ちを強く伝えたいっていうとき「あっぱれ」って表現していたっていうことなんですが、それは「天晴」っていう言葉で残っていますよね。

 

 

そんなに一般的に使う言葉じゃないですけど、アッパレ! っていうのは充分に今でも通じますもんね。
素晴らしいっていうニュアンスで使われる天晴ですが、この漢字は当て字らしいです。


そりゃそうでしょねえ。
天がスカアっと晴れるっていうニュアンスの使われ方は「あはれ」にはありませんもんね。
今となっては「哀れ」と「天晴」は同じ言葉だっていうふうには、全然思えませんけどね。


「あはれ」が「あっぱれ」になるっていうのは、「やはり」が「やっぱり」になっているのと同じですね。


あはれ、あっぱれ、いとをかし、というお話でした。

 

【最終共通祖先】もっと詳しく言うと「最終普遍的共通祖先」っていうヤツ

< 地球上の生き物は やっぱりみんな み~んな友達 なのかも >

旨いワインを作るには、まず旨いブドウを作ることが欠かせません。


そりゃそでしょねえ。
何を、どういうのを旨いと思うのかは人それぞれでしょうけれど、ワイン用のブドウはこうでなきゃダメよね、っていうこだわりを持って作っておられるですよ、生産者さんはね。


で、ブドウの生産には「栄養成長」と「生殖成長」っていうのがあるんだそうです。


ブドウの樹を植えて、早く大きくなあれっていうのが「栄養成長」
たっぷりの栄養を与えて元気な樹に育つようにするわけですね。


「生殖成長」っていうのは、樹が子孫を残すために養分を果実に、つまりブドウの実に樹の養分を集める段階のことなんですね。


どこでも誰でもやっているのかどうか分かりませんが、ブドウ生産者はこの「生殖成長」の段階で、旨いワイン用のブドウにするために、ブドウの樹にストレスをかけるんだそうですよ。
水分だったり、温度だったり、かけるストレスの種類は工夫のうちで企業秘密ってことになるんでしょうけれど、ブドウの樹に、こりゃヤバイ、って思わせる。


そうするとブドウの樹は、自分の子孫を残すためにブドウの房にたっぷりの栄養を送り込んで、タンニンの量を増やすように反応変化するんだそうです。つまりブドウは旨くなる。


ブドウの樹としては鳥や動物になるべく多く食べてもらって、タネを運んでもらって、種の保存可能性を上げたいからってことですね。
のうのうと暮らしてるより、危機感を感じた方が旨くなる。なるほどではありますが、どこか悲しい真実。

 

 

 


人間の知恵っていえば知恵なのかもですが、ブドウってやっぱり生き延びていくために生物反応しているんですね。


人間や、動物たちと同じってことが言えそうです。


そりゃそうなんです。人間とブドウぐらいでああだこうだと騒いじゃいけないみたいです。


イギリスの自然科学者、チャールズ・ダーウィンが「種の起源」を発表したのは1859年。
それ以来どんどん研究は進んでいて「系統図」なんかもかなり詳細になっていきますね。

 

 

人と類人猿のチンパンジーが分かれたのは600万年前ぐらいらしいですね。


まあ、この辺りのアカデミックな意見はまとまってはいないらしいんですけど、そこには「共通祖先」がいるってことになりますよ。
600万年前に、ヒトとチンパンジーに分かれていく基になった生き物。共通祖先。
必ずしも2分岐ってことでもないんでしょうけどね。


霊長類に範囲を絞らずに動物の進化、分化っていうのを考えていきますと、哺乳類、イヌやネコだって祖先は人間と同じなんだそうです。


鳥だって、桜やタンポポなんかの植物だって、虫だってそうなんです。同じ祖先に行きつくんです。
それどころかですね、ビフィズス菌とかウイルスとかも同じ祖先に行きつくんじゃないかってことなんですよ。
ちょっとね、ええ~!? って思いますけど、「共通祖先」っていう考え方がそうなんですね。


つまり、今現在の地球上の全ての生き物は、たった1つの生命体に行きつくってことです。


「LUCA(ルカ)」っていうのが「最終共通祖先」で、今現在の全ての生き物の共通祖先です。
「Last Universal Common Ancestor」ですね。


この考え方は統一見解がある段階じゃなくって、ルカの他にも「プロゲノート」「コモノート」「センアンセスター」っていうのもあるみたいです。


「共通祖先」っていう生命が、地球最初の生命なのかっていうことについてもいろいろ考え方があるみたいなんですね。


「共通祖先」から分化した生命体全てが、今現在、絶滅せずに存在しているっていうことは考えられないですよね。絶滅種っていうのは知られているだけでもかなりありますし、知られていない絶滅種だってたくさんあるだろうってことです。
で、「最終共通祖先」っていうのは、現存している生命体に限っての「共通祖先」っていうものなんですね。


今現在知られていない、絶滅してしまった生命体は系統樹に入り込めませんから、現段階での「最終共通祖先」っていう認識しか出来ないってことになります。


って言いながらですね、今現在の系統樹の中に入っている絶滅種っていうのもありますよ、ってところが理論の複雑なところですよ。マンモスとかね、いるんです。系統樹に入っている絶滅種もね。
さらには、「最終共通祖先」と、地球最初の生命体がイコールじゃないっていうことには、また、もう1つ別の観点からの考え方があります。


わりと重大なことだと思うんですけど、「地球での生命発生は1回だけだったのか?」っていうことです。

 

 

 


今現在存在している生き物たちの系統樹の「共通祖先」が突き詰められたとして、全てが絶滅してしまった別の系統樹が存在していないとは言い切れないってことですよね。
なんせ、分かっているだけでも今現在は6回目の大絶滅期らしいんですよ、地球はね。
共通祖先の考え方については研究者たちの中でも意見の統一が無いところみたいですよ。


素人ながらにいろいろ調べてみますと、それぞれの研究者の立場で、地球上での生命発生は1回だけです、って言い切っている文言も見ますし、1回だけとは言い切れないっていう記事も見ます。


地球の生命っていうのが宇宙の中で孤独な存在なのかどうかは、今のところ何とも言えない段階なんでしょうけれども、生命は、なぜ、どうやって誕生したのかって、考えれば考えるほど不思議です。


1990年、アメリカの微生物学者カール・リチャード・ウーズによって提唱された「3ドメイン説」っていう生物分類体系は、現生物全体を「細菌」「真核生物」「古細菌アーキア)」っていう3つに分けています。


細菌っていうのはバクテリア類ですね。


真核生物っていうのが我々人間を含む動植物、菌類。


古細菌っていうのは、メタン菌、高度好塩菌、好熱好酸菌、超好熱菌っていう、極限環境で生きている生物とかですね。


海底火山の噴火口のすぐ近くで生きている好熱好酸菌っていうのがニュースで取り上げられていたのを見たことがあります。


ドメインっていうのは生物分類の最高位のことです。


生物分類なんて一般的に詳細段階まで馴染みのあるもんじゃないと思いますけど、属とか種とか、あるいは目だとかは聞いたことがありますね。


例えば、サンマをみてみますと、正式な分類としては、


真核生物「ドメイン」、動物「界」、脊索動物「門」、脊椎動物「亜門」、条鰭「綱」、ダツ「目」、サンマ「科」、サンマ「属」、サンマ「種」 


ってことになります。学者さんたち、大変ですよねえ。


サカナ屋さんに行って、こんな名前が書かれていたら、どうでしょうね。少なくとも旨くは無さそうです。


しかしですね、人間とサンマとなら、まだ同じ祖先を持っているんですよって言われても、はあ、そですかあ、ってな感じで無理矢理納得できるんですけど、超好熱菌とも一緒ですよって言われてもねえ、ん? ってしか感じませんですよ。

 

 

 


デオキシリボ核酸(DNA)は、アデニン(A)、シトシン(C)、グアニン(G)、チミン(T)の4種類で出来ているらしいですよね。
この核酸塩基っていうのは、DNAを形成している4つのほかにもう1つ、ウラシル(U)っていうのがあって、アデニン(A)、シトシン(C)、グアニン(G)、ウラシル(U)の4つで出来上がっているのが、コロナワクチンで一気に知られるようになったRNAです。


この生命の不思議にせまるDNAの分析はいろんな生命体で完了していて、超好熱菌も終了しているみたいです。
で、一緒、ってことです。


でもさあ、全然違うじゃん! ってことで、今現在の研究ステージはゲノムっていうジャンルになっているんだそうですけどね。


なんかね、素人が首を突っ込むジャンルじゃないんでしょうけど、ルカ、最終共通祖先ってどんな生命体なんでしょう。


地球は46億年前に出来たんだそうです。
それから2億年ぐらい経って海ができた。熱湯だったかもしれない地球の海。
で、38億年前ぐらいに海で地球初の生命が誕生。


この説が、地球で生命が誕生したのは1回だけっていう説のものなのかどうか分かりませんが、38億年ってねえ、理解の範疇を軽く超えてます。


生命が陸上に這いあがってきたのが4億年前。植物が、ってことなんでしょうかね。分かりません。


人間って、何を望んで人間に進化したんでしょうかねえ。
恐竜の世紀って1億年ぐらい続いたんだそうですけど、人間って、この先どうなんでしょ。


最終共通祖先、ルカねえ。38億年前ねえ。おととい、何を食べたか覚えていない頭じゃ、ついていけませんです。


ルカって、ゴッド・ファーザーの用心棒にいましたけどねえ。
♪広い世界の片隅に~
ルカに性別ってあったんでしょかねえ???

 

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【ビールの起源】液体のパンって言われることもあるらしい酒

< 紀元前から今と同じ状態のビールだったわけもなく >

酒の中で一番古い歴史を持っているのはワインで、次いでミード(ハチミツ酒)。その次ってされているのがビールです。
でもこれ、当たり前ですがエビデンスがあっての説じゃなくって、たぶんね、ってことみたいですよ。


ビールの起源については、イランで発掘された紀元前5000年ごろの陶器からビールの成分が発見されているそうですし、紀元前4000年ごろの粘土板には古代メソポタミアシュメール人がビールを作っていたっていう記録があるそうです。


ま、紀元前のビールっていうのがどんな代物だったのか分かりませんが、「液体のパン」って言われることがあるんだそうですよ、ビールって。


聞いたことあります?


ほぼ文明の黎明期から人類と共にあるっていう感じのビールなんですが、なんで「液体のパン」って言われるんでしょうかね。


ビールはお腹が膨れるからねえ、っていうご意見はよく聞きますです。
炭酸飲料ですからね、他の酒に比較すればその通り、膨満感につながりやすいビールではあります。


ビールの魅力、泡、つまり炭酸ガスはとっても重要な要素ですよね。
ビールの炭酸ガスは主には、麦汁に酵母が加えられることによって起きる発酵の段階で発生するものなんですね。


ただ我々が普通に呑んでいる缶ビールや瓶ビールには、ビールを詰める際に工業的に作られた炭酸ガスを充填しているんだそうです。
それは、缶詰、瓶詰されたビールを酸化させないために、炭酸ガスで酸素を追い出すためですね。


この缶や瓶に詰めるときの炭酸ガスに窒素ガスを混ぜて入れる方法を発明したのが「ギネスビール」なんですね。
泡の細かさ、泡が旨いとか言われるのは、この段階の泡が影響しているんでしょうね。
窒素ガスだそうです。

 


最初の一杯、ぐいぐいとやって、ぷはあ~、っていうのがビールの醍醐味なんですけど、あの、ぷはあ~、は炭酸ガスに誘発されているわけです。爽快ですよね。
ワカコ酒では「ぷしゅー」ってやつですね。張りつめていた気持ちにポチって穴を開けて、ぷしゅ~ってチカラを抜くリラックスの表現。
アルコール以外でも人気の高い炭酸ガスです。


でも炭酸ガスはビールの栓を開けてしまえば、どんどん消えていきますよね。
気の抜けたビールになってしまいます。


お腹が膨れる要因が炭酸ガスにあるとしたら、栓を開けて早めに呑んでしまわないと「液体のパン」にはなりそうにないですね。
ぷしゅー、とか言っている暇はなさそうです。


でも考えてみますと、古代のビールって、作ってそのまま放置、っていうのが普通でしょうね。


壺だとか、器に入れておくにしても炭酸ガスで封入とかしていないと思います。酵母の発酵で作り出された炭酸ガスは、どんどん消えていき放題。気の抜けたビールっていうのがスタンダードってことだったんじゃないでしょうかね。古代のビール。
冷蔵庫で冷やす、なんてことも出来ませんしね。


「液体のパン」っていうのは、ビールを呑むとお腹が膨れるから、っていうことから言われているんじゃなくって、元々はパンだったものから変化したのがビールなんですよってことで、「液体のパン」って言うんじゃないの? っていう説があるんですよね。
ま、これも、いろいろある説の中の1つってことではあります。


紀元前のことなんてハッキリしたこと、分かりませんよね、そりゃあね。


こういう話です。


歴史の勉強で誰でも習ったはずの「出エジプト
これ、なんて読むの? 「で」? 「しゅつ」? はい、一般的には「しゅつ」みたいです。
でもまあ、どっちでもイイような気もしますけどね。


紀元前1300年ごろのことらしいですね。
モーセ十戒っていうのは、何度か映画にもなっています。


海を割ってエジプトを脱出してから、約束の地カナンに落ち着くまで40年かかりました、っていうことなんですよね。
でもまあ、旧約聖書に書かれた事柄をどこまで事実とするのかは、いろいろと見方の別れるところです。

 


出エジプト記」っていうのがあって、40章あるうちの第12章でモーセに率いられたイスラエル人たちは、その数100万人とも言われていますが、エジプトを出る旅を始めます。


「 四百三十年の終りとなって、ちょうどその日に、主の全軍はエジプトの国を出た」


っていうことで、イスラエル人たちがエジプトに住んでいたのはきっかり430年だったと書かれています。
けっこう長いじゃんね。


第14章が有名な章です。
時のエジプト王パロは軍隊を率いてイスラエル人たちを追います。
海を前にして後ろからどんどん迫って来るエジプト軍に恐れをなしたイスラエル人たちは、こんな荒野に屍をさらすことになるんだったら、エジプト人に仕えていた方がましだったって、モーセを非難するんですね。


で、主(ヤハウェ)はモーセに向かってこう言います。


「あなたは、なぜわたしにむかって叫ぶのか。イスラエルの人々に語って彼らを進み行かせなさい。あなたはつえを上げ、手を海の上にさし伸べてそれを分け、イスラエルの人々に海の中のかわいた地を行かせなさい。わたしがエジプトびとの心をかたくなにするから、彼らはそのあとを追ってはいるであろう。こうしてわたしはパロとそのすべての軍勢および戦車と騎兵とを打ち破って誉を得よう。わたしがパロとその戦車とその騎兵とを打ち破って誉を得るとき、エジプトびとはわたしが主であることを知るであろう」


そして、


モーセが手を海の上にさし伸べたので、主は夜もすがら強い東風をもって海を退かせ、海を陸地とされ、水は分かれた」


ってことになるのがモーセ十戒ですね。トンボロ現象。

 


で、


イスラエルはまた、主がエジプトびとに行われた大いなるみわざを見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセとを信じた」


っていうことになるんですが、この「出エジプト記」は、イスラエル人たちがモーセにモンクばっかり言っている印象があります。飲食についてのブーイングが多いですね。
エジプトでの暮らしは特に望んだものでは無かったけれども、ちゃんと飲み食い出来ていたのに、こんな荒野で私たちは何を飲んで何を食べればイイのか。


そうすると、第16章にこうあります。エジプトの地を出て二か月目の十五日の荒野でのことだそうです。


「そのとき主はモーセに言われた、「見よ、わたしはあなたがたのために、天からパンを降らせよう。民は出て日々の分を日ごとに集めなければならない。こうして彼らがわたしの律法に従うかどうかを試みよう。六日目には、彼らが取り入れたものを調理すると、それは日ごとに集めるものの二倍あるであろう」


「夕べになると、うずらが飛んできて宿営をおおった。また、朝になると、宿営の周囲に露が降りた。その降りた露がかわくと、荒野の面には、薄いうろこのようなものがあり、ちょうど地に結ぶ薄い霜のようであった。イスラエルの人々はそれを見て互に言った、「これはなんであろう」。彼らはそれがなんであるのか知らなかったからである。モーセは彼らに言った、「これは主があなたがたの食物として賜わるパンである」」


なんだかよく分からないところもある記述ですが、飢えと渇きはおさまったっていうことなんでしょうね。
しかも、このパンは、イスラエル人たちが、約束の地カナンに着くまで、40年間与えられ続けたらしいんですね。


出エジプト記に書かれている「これはなんであろう」っていうイスラエル人たちの言葉ですが、ヘブライ語では「マナ」っていうんだそうです。
で、この「マナ」っていうのが「液体のパン」なんじゃないかっていう説があるんですよね。


ここでよく言われるのが、エジプトを出てからカナン、現在のイスラエルの辺りまで、40年もかかるのはおかしいだろうっていうことですね。


でもまあ、イスラエル人たちの主、ヤハウェとの約束の地ではあっても、空地であったわけじゃないですよね。古代においてもね。誰か居ますよ、普通に。


エジプトから脱出したイスラエル人たちは、軍隊でもあったんだろうって思います。
そうじゃないと集団移動なんてできないでしょうし、カナンの地に着いたっていうのは、制圧したっていう意味なんじゃないでしょうかね。
そこまで40年。


まあ、40年っていう年数自体、そのまま受け取ってイイのかどうか疑問ですけれど。
パンは小麦、大麦のデンプンから作りますが、麦粉自身にはデンプンを分解することはできません。


ですが、麦に水分を与えて、一粒ひと粒から芽や根が出てくる状態にしてやれば、麦の胚の中に糖化酵素が出来て、自分自身のデンプンを分解し始めるんだそうです。
そうなると、アルコールと炭酸ガスが発生するわけです。


そういう状態になった麦を粉にしてパンを作る。っていうか水でこねて乾燥させる。
そのままで少し甘さのあるパンが出来る。それが「マナ」


さらにですね、この「マナ」を砕いて水につけておけば発酵が進んでビールが出来るってことになります。
ってことはですね、飢えをしのぐためっていうより「マナ」は、戦いや移動の英気を養うために発明された「液体のパン」なのかもしれませんよ。
つまりアルコールのパン。


エジプトには既にビールがあって、イスラエル人たちは既にビールを知っていて、ちゃんと固定された醸造所を持てない移動期間であってもビールを作り出せるようになったっていうことかもなあって思います。

 


カナンの地に落ち着いてから「マナ」は姿を消します。
なんででしょう。


ちゃんと落ち着いた場所に醸造所を建築できたからではなさそうです。


それはエジプトからカナンに移ったことによって、麦の土地からぶどうの土地になったから、かもです。


ぶどうの果実は最初から糖分を持っているので、ワイン造りの方が簡単だったっていうことも出来ます。
イスラエル産のワイン、ツウの間にはしられた銘柄もありますよね。


「マナ」っていうのを食べてみたい気もしますけど、今、実際にある「ビールパン」っていうのは、生地にビールを入れて作るパンだそうで、全然違うものですねえ。


ん~。ビール茶漬けっていうのもありますけど、あれはねえ、別々の方がイイです、ゼッタイ!


ぷしゅ~。