< スマホに届くアドバイス(?)は当然のように「10人の小さな兵隊さん」だったでしょねえ >
イギリス、ロンドンから西南西へ270キロメートルほど、コーンウォール半島の中部に、南北を海に面したデヴォン州があります。
州の南東部を流れてイギリス海峡に注ぐダート川沿いに、16世紀の後半に建てられた「グリーンウェイ」っていう歴史的な大邸宅があるんですね。
18世紀にはチューダー様式からジョージアン様式に再建されて増築、庭も改装されたりしながら、1938年に売りに出されていたこの大邸宅を、子どもの頃から見知っていたっていう「アガサ・クリスティ(1890~1976)」が購入したんですねえ。
アガサ・クリスティの作家デビューは、1920年、「スタイルズ荘の怪事件」30歳の時。
邸宅を購入した時は既に1926年「アクロイド殺し」、1934年「オリエント急行の殺人」、1936年「ABC殺人事件」、1937年「ナイルに死す」を発表していて、大作家になっていましたですから、「グリーンウェイ」のような歴史的な邸宅も購入できたってことでしょうね。
「グリーンウェイ」を購入した時点で、アガサ・クリスティは再婚していて、夏に滞在する別荘として使っていたらしいですね。
かなり気に入っていたようで、自分では「夢の家」って呼んでいたんだそうです。
子どもの頃からの憧れだったのかもしれませんね。
アガサ・クリスティが亡くなった後は娘夫婦が2004年まで暮らしていたそうですが、その娘夫婦も亡くなって、今は「グリーンウェイハウス」としてナショナル・トラストの所有になっているんだそうです。
イギリスで設立されたナショナル・トラストっていうボランティア団体の正式名称は「歴史的名所や自然的景勝地のためのナショナル・トラスト」
設立にあたっての目的が定められています。
「国民の利益のために、美しく、あるいは歴史的に意味のある土地や資産を永久に保存するよう促すこと、土地については、実行可能な限り、その土地本来の要素や特徴、動植物の生態を保存すること、そしてこの目的のために、資産の所有者から歴史的建造物や景勝地の寄贈を受け、獲得した土地や建物などの資産を国民の利用と楽しみのために信託財産として保持すること」
国民の利益のために、です。さすがイギリスって感じがしますね。
「グリーンウェイハウス」は、歴史的な価値の他に、アガサ・クリスティが使っていたっていう大きな価値が加わっていますからね、人気の観光物件になっているわけです。
海外からでも、イギリスを旅行する人なら、アガサ・クリスティを知らないってことは、まずないでしょうからね。
2023年7月14日。
「グリーンウェイハウス」には100人以上の観光客が訪れていたそうですから、その日のデヴォン州は曇天か、降ってはいてもたいした雨じゃなかったってことなんでしょう。
100人以上の観光客っていうことは、ツアーを組んで訪れていた人たちも多かったのかもしれません。
アガサ・クリスティのファンたちは、存分に遺品や執筆部屋の雰囲気を楽しんだんでしょうね。
21世紀の世界に共通していることの大きな1つは、気象現象が激しくなっていることでしょうか。
嵐が発生すると、そのパワーがこれまでとは違って想定外に大きく、信じられないような事態が起きてしまったりしますね。
この日のデヴォン州も急な嵐に見舞われてしまいます。
「グリーンウェイハウス」に通じる道路わきの大樹が暴風でなぎ倒されて、通行不能になってしまった。
観光客やスタッフたちが敷地内に閉じ込められてしまったそうです。
21世紀現在の、実際の話ですよ。
紅茶を楽しんだり、雨の上がった緑の芝生でクロッケーゲームを楽しんだりしていた人たちもいたそうですが、1人でツアーに参加している妙齢の女性なんかもいたでしょうね。
アガサ・クリスティの屋敷に閉じ込められちゃったらですね、ま、ちらっとね、考えちゃうと思います。
そういうシチュエーション、いろいろ読んでますからね。
脳内に不吉な予感めいたものがやって来たりなんかしちゃいます。
紅茶をいただきながら、周りの観光客たちに気取られないよう、落ち着いている自分を演出しながら、彼氏にメールとかするでしょうね。
「グリーンウェイハウスに閉じ込められちゃったわ」
「グリーンウェイハウス? って、あの、アガサ・クリスティの?」
「そうよ」
「それは怖いね、ヤバイでしょ。そこってあれだよ、死者のあやまちに出てきたナス屋敷だよ」
「そうなんだけど、ナス屋敷はフィクションでしょ。怖がらせないでよ」
「10人の小人って知ってる?」
「それを言うなら、10人の小さな兵隊さんでしょ。それは違うわよ、死者のあやまちじゃなくって、そして誰もいなくなったでしょ」
不吉な予感の確信を、つい、自分から言っちゃいますね。
「そうだよ、それだ。そして誰もいなくなった。すぐに逃げないとヤバイよ。まだ誰も殺されてないの? 辺りをよく観察して」
「まったくもう、ヘンなことばっかり言わないでよ」
「ホストが提供する食べものだとか、紅茶だとか、口にしちゃダメだよ」
ふっと、目の前に置かれた飲みかけのティーカップを、じっと見つめちゃったりしますね。
窓の外を見てみれば、いつの間にかすっかり暗くなっています。
彼氏は無神経です。
「10人の小さな兵隊さんって、どんなんだっけ? 覚えてる?」
もう電源切っちゃいますね。
と、「グリーンウェイハウス」のスタッフから案内があります。
「みなさま、この屋敷に通じる道路を塞いでいた大きな樹は、地元救助チームのみなさんがすっかり取り除いてくれました。これより順番に敷地から出ていただくことが出来ます。お疲れさまでした」
どれくらいの時間、閉じ込められていたのか報道されていないみたいですが、全員、無事に家路につくことが出来たそうです。
めでたしメデタシ。
それにしても、ほぼ全員がアガサ・クリスティの小説は読んでいるでしょうし、「見立て殺人」っていう「そして誰もいなくなった」の内容を、嫌がうえにも思い出していたでしょうね。ちょっとはね。
実際に閉じ込められた人数は10人じゃなくって100人ですし、誰かから招待されて屋敷に入ったわけじゃなくって、自分から進んでやって来たっていう事情が違ってはいますけどね。
「そして誰もいなくなった」の見立て殺人の歌に使われている「10人の小さな兵隊さん」は、元々1868年に作詞、作曲された「10人のインディアン」っていう歌で、それを基にアガサ・クリスティが殺人の見立て用にアレンジしたものだって言われています。
「10人のインディアン」って「テン・リトル・インディアンズ」で知っている人も多いかと思います。
ただの数え歌ですよね。
♪1人、2人、3人のインディアン
♪4人、5人、6人のインディアン
♪7人、8人、9人のインディアン
♪10人のインディアンボーイズ
でもこれは、現代版ってやつで、ホントは違うんですね。
アガサ・クリスティが参考にした「10人のインディアン」は、こんなんです。
♪10人のインディアンの子、一列に並んでた
♪1人家に帰って、9人になった
♪9人のインディアンの子が、門にぶら下がってた
♪1人落っこちて、8人になった
♪8人のインディアンの子が、楽しそうにしていた
♪1人眠って、7人になった
♪7人のインディアンの子が、いたずらしてた
♪1人が首の骨を折って、6人になった
♪6人のインディアンの子は、みんな元気だった
♪1人がくたばって、5人になった
♪5人のインディアンの子が、地下室への入り口にいた
♪1人転げ落ちて、4人になった
♪4人のインディアンの子が、酔って騒いでいた
♪1人が酔いつぶれて、3人になった
♪3人のインディアンの子が、カヌーに乗った
♪1人が水に落ちて、2人になった
♪2人のインディアンの子が、銃にいたずらしてた
♪1人が撃たれて、1人になった
♪1人のインディアンの子は、寂しくなった
♪彼は結婚した、そして誰もいなくなった
まあね、けっこうグロイ感じもあったりしますけど、ここからアガサ・クリスティはインスピレーションを受けるんですね。
「小さな兵隊さんが10人、食事に行ったら1人が喉につまらせて、残り9人」
「小さな兵隊さんが9人、寝坊をしてしまって1人が出遅れて、残り8人」
「小さな兵隊さんが8人、デヴォンへ旅行したら1人が残ると言い出して、残り7人」
「小さな兵隊さんが7人、薪割りしたら1人が自分を割ってしまって、残り6人」
「小さな兵隊さんが6人、丘で遊んでたら1人が蜂に刺されて、残り5人」
「小さな兵隊さんが5人、大法官府に行ったら1人が裁判官を目指すと言って、残り4人」
「小さな兵隊さんが4人、海に行ったら燻製ニシンに食べられて、残り3人」
「小さな兵隊さんが3人、動物園に歩いて行ったら熊に抱かれて、残り2人」
「小さな兵隊さんが2人、日向ぼっこしてたら日に焼かれて、残り1人」
「小さな兵隊さんが1人、1人になってしまって首を吊る、そして誰もいなくなった」
でもまあ、「グリーンウェイハウス」の敷地に閉じ込められた人たちは、全員、無事だったっていうことで、夏場の納涼にはなったのかもですけどね。
ところで、アガサ・クリスティ、何冊ぐらい読んでます?