< 合理的とか 効率とか そういう意識にいつのまにか取り込まれちゃってるかもね >
朝ごはんを食べ終わって「ねえ。今晩、なに食べたい?」っていうのは、どこの家庭でも繰り広げられている光景、らしいです。
よく話題に出てくるのはカップルの場合で、質問するのは女性。
専業主婦でも、共働きでも、多くの家庭で調理をするのは女性である場合が多いですね。
料理することを趣味にしている、あるいは料理することが好きな男性も少なくないですし、何が食べたいか質問するのは男性側であることもあるんだろうと思います。
ま、どっちにしても、少なくともその日の晩御飯の調理担当がする質問ですね。
「ねえ。今晩、なに食べたい?」っていう、ある種のプライベートな会話がトピック的に扱われるのは、なんでかというと、普遍的にどこのカップルにも起きている「問題」だからなんでしょう。
なにが「問題」なんでしょう。
朝ごはんを食べている最中だったり、食べ終わったばかりで、晩御飯のメニューを聞かれても考えられません、っていう質問された側の意見。なので「何でもイイ」
質問する側にとっては、毎日の献立を考えるルーティンの苦労も考えずに「何でもイイ」とか応えられるのは、正直ムカツク! ってあたりに問題の核心がありそうです。
料理をするには、材料の準備が必要ですから、あらかじめメニューが決まっていれば効率的に買い物が出来ますし、メニューを考えるっていう面倒をせずに済みます。
ちゃんと返事しろよなあ、っていうのはとてもよく分かります。
ルーティンワークが続くと、誰でもね、倦んできますからね。メニューの決定を相手にゆだねるっていう態度が「なに食べたい?」になるんだろうと思いますね。
メニューが決定に至らない過程の中で、何か手助けになるような回答を期待しているところへ「何でもイイ」と返ってきてしまうと、コンニャロ! っていう気持ちになるのも人情ですね。
ここで、あんたの食べたいものを作ってやろうじゃないのって言ってるのに、っとか理屈をこね回しちゃうのはナシですよ。
でもさあ、晩御飯にカレー作ったら、昼、カレーだったのにイ~とか言われちゃうんだよねえ、ってこともありますよね。
ずっと昔から取り上げられてきているトピックで、ある特定の解決策が提示されてもいます。
それは、1週間であれ1ヶ月であれ、カレンダーにメニューを書き込んでおくっていう方法。
なるほどな方法です。
意外ないただき物があったりして、それを利用したメニューに変更することがあったとしても、それはそれ。日々のメニューに頭を悩ますことは、ロングスパンのメニューを決めるその日だけってことになります。
夫婦やカップルであれば、そのメニューを決める1日は一緒にお互いの希望をあーだこーだやって、一応の同意があればトラブルに発展することも無さそうです。
ただね、これ、数年も経てばお互いにやらなくなっていくんじゃないでしょうかね。
人間って、そういうもんですよねえ。
特徴のある食べものほど飽きやすいです。
こうした夫婦カップル間での「なに食べたい?」問題とは別に、「自分が何を食べたいのか」時間をかけても決められない。例えば外食の際にメニューがなかなか決められない人っていうのも、少なくないですね。
これ、つながってますよね。
自分で決められないから他人に聞く。「なに食べたい?」の根底には、この自分で決められないっていう性分がありそうです。
そういう人って、まあ、普通に居ますけれど、例の北大路魯山人センセに言わせますと、
「んな奴あ、ダメだ。生きる力が無い」
ってことになるんですよね。
まあ誰もが魯山人センセみたいに無尽蔵なパワーと無神経さを合わせ持っているわけじゃありませんからね。迷う時もありますよ。
頭ごなしに「ダメだ」って言われてもねえ、って思います。
メニューを決められないことは悪いことじゃないです。すぐに決められないからっていったって、プレッシャーに感ずる必要もないと思います。
「なに食べたい?」って聞かれて、それがどういうタイミングだったとしても、すぐに具体的なメニューを返答出来る人っていうのも少ないんじゃないでしょうかね。
常に食べることばっかり考えている人なんて、そうは居ませんよ。魯山人センセの方が圧倒的少数派です。
「何でもイイ」って応える側も、その時点で明確なメニューに頭が働きませんし、非協力的ってわけじゃないんですよね。
なんか聞かれたらすぐその場で明確な回答をしなければいけないっていう「強迫観念」が質問する側にも、された側にもあるのかもしれません。
それが現代人である我々の生きるシガラミみたいになっているかもしれませんよね。無意識にです。
なにか意味のある人生、自分が生きて在ることには何かしら実質的な意義がある。
そう思い込んでいる、あるいはそう思い込ませられている感じもします。
承認欲求が強くなり過ぎちゃうと、自分に返って来ますね。プレッシャーが。
今回のコロナ禍。パンデミックという誰もが未経験の生活状況になって、人の生活は誰であっても、自分個人の思い通りに過ごしていける保証はないんだということが明確になりました。
コロナ禍が完全に過ぎ去ったわけじゃないんですけれど、出不精にならず、そろそろみんなで社会生活に戻っていくことになる思います。
巣ごもり生活の経験を、コロナ明けの生活にちょこっと活かしていけると嬉しいですよね。
酔生夢死でイイんじゃないかなあって、なんとなくそんな感じがしています。
キチンきちんと何事にも向き合っていく。即時即答っていう強迫観念に対して距離を置いてみる。
例えば「なに食べたい?」っていきなり相手に委任するんじゃなくって、「なに食べようか?」っていう相談系にスライドしてみる。
朝ごはんの途中だったとしても「なに食べたい?」って聞かれたら「何でもイイ」ってなっちゃうところが、
「今晩なに食べようかなあ。ね、何にしようか?」って聞かれれば「そうだねえ……」
ってな応答になって、一緒に考える。
ってことになりませんかねえ。
今、ここで決めなくちゃいけないっていう強迫観念から一旦離れてしまえば、何事にもガツガツせずに対応できそうに思えます。
今すぐにキチンと決めなければならないっていうプレッシャーがなくなる。
そうなると不思議なもので、むしろ迷いが消えていきそうです。
あれがイイかなあ。そういえば最近アレ、食べてないよねえ。
そういう発想になってくると、外食時にメニューを拡げて、何にしようか。あれもイイし、これも食べたいって、有意義な食事を享受したいっていう気持ち、損な時間を過ごしたくないっていう自己本位な気持ちが薄らぐような感じがします。
きょうは、今は、これにしよう。
すっと迷わずに決められますよ。たぶん。
酔生夢死の感覚を自分の中に認めてあげると、自分に対して客観性が持てるようなりますね。
合理性とか、効率とか、そういうのはある程度、ハリキリボーイ、シャカリキガールに任せておいて、自分は応援に回っておきます。
ってな感じの気持ち。
「なに食べようかねえ」
「そうだねえ」
っていうカップルの会話には、個人的に縁遠いですが、こんな感じで仲良きことが巷に溢れてくれば、なにがどうあれ、悪い方向には行かないんじゃないでしょうかね。
ちなみに酔生夢死って入力、変換したら「水星虫」って出てきました。さすがマイ・マシン。
いくら自分に対して客観的な態度を良しとするにしても、水星に居る虫っていうほど遠くの存在は望みませんし、なれませんね。
そもそも水星にイノチ、ないでしょ。
水星に虫が生きているんだとしたら、それはもう、生きる力、有り過ぎです。
生きることは食べること。
はち切れそうな生命力の水星の虫に負けずに、しっかり食べましょう。何を食べようか考えるのって楽しいことのはずです。義務じゃなくって自然の欲求なんですからね。