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【火焔太鼓】ついでに生きてるような塩梅でも イイことがまわってくることもあるっていう一席

< この話の主役はね 道具屋の亭主じゃなくって そのカミさん ごく普通のおんなのシト >

こないだね、ラジオでなんとかっていう噺家が出てて「落語はいかに聞いてもらえるように語って聞かせるかなんですよ」なんてね、真面目な調子で言ってましたよ。


バカ言っちゃいけません。冗談じゃないってんですよ。
語って聞かせるなんて、ウエからものぉ言っちゃいけません。


落語ってのはね、本来、高座を見に行くもんですよ。


ラジオとかCD聞いてニンマリしているってのも、ありゃあね、その噺をしている時の落語家の顔をね、思い浮かべて、へへってな楽しみ方をしているわけなんでございますよ。


演者ですからね、噺家は。落語家ってもんは頭の回る役者みたいな奴らですよ。


顔がイイとか、そんなんじゃないですね。姿かたちなんて、ああして座布団の上に正座しちゃってますからね、分かりゃしません。


それでイイんです。だいたいにおいてですね、イイ噺家なんてのは、ジジイが多いんですから。


顔がイイったって、女の人たちが黄色い声を上げて、キャーキャーいうのとは違いますね。種類が違います。
噺家のツラなんてえものはね、あれですよ。まあ、そこんとこは自主規制でやめといて、続きです。

 


落語ですね。噺の中にはいろいろ人間が出てまいりますね。八っつあん、熊五郎与太郎、ご隠居。
こういうのを演じ分ける、語り分ける、ってのが巧い噺家ってことになります。


だんだん、そいつの顔に見えてくる。右向いたり、左向いたりしてるだけなんですが、ちゃんと伝わってくる。


噺の中には、色っぽい花魁なんかが出てくるのがありますね。傾国の美女、天下一のキレイどころをね、疲れ切ったようなジジイが演るわけです。
こりゃあね、美人になんか見えるわけがない。そんなわけはないんですが、美人として伝わってくるってのが、名人芸の不思議なところ、ウデなんでしょうね。技です。演技。


タダね、こんなことは先刻みなさんご存じのことなんではありますけれどね、なんでそうなるかっていうのは、ハッキリした理由がありまして、はい。


噺を聞いて、見ている方が、勝手に頭の中で描いちゃうんですね、花魁を。与太郎をね。
噺家は右向いて左向いて、演じている役が変わったってことを伝えてるんです。
その合図の巧さが名人芸っていうことなんでございますですよ。


つまり、落語を寄席で見て、聞いてる連中ってのは、そこそこ想像力、連想力ってものがなくっちゃいけません。
ボーッとしている奴はダメなんです。


最初っから声だけの落語しか知らないんじゃ、そりゃ、半分も、ってことです。


想像力、連想力ったって、特別な頭の良さが求められるわけじゃないんで、ごく普通の常識、感性ってことです。


で、ヘタと名人の違いってのは、右の向きかた左の向きかたじゃなくってですね、高座に集まって来ている連中の、息の合わせ方。客の呼吸をひとつに出来るかできないか。


寄席で、ひとりの噺家をひとりの客が聞いてる見てるってわけじゃございませんからね。たいていは、いっぱい客が入っておりますね。そうじゃないと、おまんま食えませんからね、奴らね。


客はみんなそれぞれ勝手に息をしてますね。当たり前です。客席に座っている老若男女、全員ばらばらですよ。
なかには知り合いなんてのも居るかもしれませんが、それにしたって、呼吸なんてものは、普段から意識してやってるもんじゃありませんし、自然に、勝手にスーハーやってる。


その客席のてんでんばらばらの息をですね、なんとなあく一つにまとめちゃう。


そうしますってえとですね、ハッと息をのんだり、うははって笑っちゃうタイミングが一つになる。


周りがドッと笑っている時に、同時に自分も笑ってるってのは、気持ちがイイんですね。特に日本人はね。


それを話の本題に入る前、枕の辺りまでにやっちゃうのが名人。


客席の息を一つにするどころか、自分の息がハアハア上がっちゃうようなのがヘタ、ってこういうことなんで。


名人、立川談志って人はね、これが実に巧かったですよ。


枕を始める前から、客席をね、じい~っと見降ろして、睨みまわす。睥睨ってやつですね。
だいたい無言でね。ちょっとずつ、枕っぽいようなことを言いながらね。自分の息と客席の息を一つにしちゃう。


談志自身が頃合いかなって思ったら、いきなり本題に入っちゃう。


さっきまで立川談志だったのに、もう噺の中の人間になっちゃってる。


「疝気の虫」なんかだと、いきなり虫になっちゃってますよ。虫の顔してる。いやホント。


巧いもんなんですよ。悔しいけど、感心しちゃいますね。って何も寄せ行って悔しがることはないんですけれどね。


「火焔太鼓」ですがね、これは三代目古今亭志ん朝が巧かったですね。まさに名人芸。


この人は高いところから睥睨なんてしませんね。話の本題に入りながら、登場人物の話し方のうちに、客席の呼吸を取り込んじゃうような巧さがありました。顔の作り方も巧いんです。女のシトのしなの作り方で笑わせる「芸」がありましたね。


火焔太鼓なんてね、シマラナイ噺なんですよ、そもそもが。気の利いたもんじゃない。


これをうまく演るっていう、ちゃんと笑わせるってね、ホント、凄い「芸」なんだと思いますねえ。


「猫の皿」みたいにね、茶店の店主が気の利いたことやって、ゼニ儲けするっていうようなオチのつく噺じゃないんです。


「猫の皿」はまた別の機会に譲ることとさせていただきまして「火焔太鼓」です。

 


骨董屋ってレベルじゃなくって、古道具屋の噺です。


噺としては、道具を見る目があるわけじゃない店主を主人公として噺が進んでいきますけれど、実はこの噺を回しているのはおかみさん。店主の奥さんなんですね。
おそらく美人じゃないでしょう。昔はどうだったか知れませんが、この噺の時にはね、ごくふつうのおかみさんなんでしょう。


店主も押され気味ながらも「化けべそ」なんて悪態を吐くようなこともありませんからね、ホントにごく普通のおかみさん。


どういう経緯でこの男が古道具屋になったのか、なんだってこの女のシトが嫁いできたのか、なんて何にも触れません。
とにかく夫婦なんです。夫婦なんてそんなもんです。


でもまあ、一応ね、噺の始まりに、店主がどうしようもない男だっていうことと、おかみさんがしっかり者だっていうことが語られます。


全然商売になって無さそうな店なんですが、甥っ子をひとり雇っていて、仕入れをする金はあるようなんですね。


店は住居兼ってやつで、二階家みたいです。
なんだかね、儲かってはいないにしろ、そこそこの生活なんじゃないのかって思いますけれど、そこはまあ落語ですから、おかみさんは、腹が減り過ぎて、ヘソが背中へ出ちゃうよ! って言ってます。


きょうもきょうとて、得体の知れない大きなものを仕入れてきた亭主に毒づきます。


火焔太鼓って噺も、江戸の昔からだんだんに出来上がっていったもんだそうで、その時々の噺家の工夫が入っているんだと思いますけれど、毒づくあたりのおかみさんを、噺家がどう演るかで、この一席のデキが決まりますね。


おかみさんを如何にミリキ的に感じさせるか。


サンザこきろすけれど、エバッテ無いんです。なんとも普通で、なんともデキタ女のシトなんです。
その辺を巧く演れるのが名人芸。


亭主が市から仕入れてきたのは、「太鼓」だという。
おかみさんは言います。


「それだからお前さんは人間がアンニャモンニャだってんだ」


「太鼓なんてもんは、祭りの前だとかに頭の働く人がサッと仕入れて、パッと売っちゃうもんだろ」


「お前さんみたいにね、「ついでに生きてるような人」に扱えるもんじゃないだろ」


このね、「ついでに生きてるような人」ってセリフですね、誰が考えたんでしょうかね。


三代目古今亭志ん朝本人なんでしょうか。不思議に染みる言い方ですよ。


2005年に河出書房新社から「世の中ついでに生きてたい」ってのをご本人が出してますけれどね。

 

極楽とんぼ」なんて言い方もありますけれど、なあに考えてんだか、っていう男は、今も昔も、どんな時代にもノホホンと生きています。


で、男が自分から言うセリフとして「世の中ついでに生きてたい」っていうのは「火焔太鼓」っていう噺があってこそですね。
火焔太鼓を知らなきゃ、響き方がね、全然ホンモノじゃなくなっちゃいますよ。


アンニャモンニャっていうのも面白い表現ですが、「アんだと、この野郎」って理屈じゃない反論を即座に出来そうですが、「ついでに生きてるような人」って言われたら、これはね、一定数の大人の男は、黙ってしまうでしょうね。


すんごく深いセリフです。そういう評価をされたら、自分ってものがなんなのか、考えちゃいますよ。
一冊の本のタイトルにしちゃうぐらい、不思議な魅力を湛えた言葉なんだと言えるでしょう。


で、火焔太鼓の古道具屋の亭主も、そう評価されてぐうの音もないんですが、降り積もった埃を甥っ子に払わせていると、甥っ子は払うっていいながら、太鼓ですからね、ドドーンと叩いて音を響かせますね。

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そうじゃないと噺が進みません。


で、その音を、さるお殿様が聞きつけて、お買い上げになる。っていう噺です。


こうやって骨だけを書いてみますと、ね、面白い噺じゃないんです。
「芝浜」みたいに、グッとくるような内容なんてないんです。


一分(いちぶ)で仕入れた太鼓が三百両で売れちゃうんですね。


おかみさんは、お城へ呼ばれた亭主にいろいろ知恵を授けます。
ここんところが、情緒ってやつですね。


亭主をこき下ろしながらも、身の安全を心配して、こんな埃だらけの太鼓なんだから、儲けなんか考えちゃいけない。
へたに商売っ気を出したりすると、お庭の松の木へ縛られて帰って来られなくなっちまうから、一分で仕入れたって話を正直にして一分で売って無事に帰ってこい、ってね、こんなことを言うわけですね。


このくだりを、どう演ってくれるのか。ここが噺家のウデの見せどころ。


セリフはポンポンいうけれど、表情が違って来ます。一組の夫婦があって、その妻側の表情です。アンニャモンニャってやっつけていた時の顔じゃありません。


でも、なんだかお城ではトントン拍子に話が進んで、おかみさんのアドバイスも、ついでに生きてる亭主は「舌がツっちゃって」ちゃんとしゃべれず、ではあったんですが逆に殿様側の言いなりになって、国宝級の火焔太鼓だってことになって三百両です。

 


で、なんとなればそこで終わってもイイ噺なんですが、火焔太鼓のイイところはここからなんですね。
名人の火焔太鼓はね。


おかみさんの変わりようで笑わせるんです。泣かせるんです。ま、泣くってのは大袈裟ですかもしれませんが。


無事帰って来た亭主が売れたよっていうのを聞いて、あ、そ。ってもんですね、おかみさんは。
ここも演じどころです。ちゃんとあたしの言った通りにやったんだろ、って受け止めです。


で、ここで、三百両! って話になります。


ええ~っ! あのゴミみたいな太鼓が、さ、三百両!? ってことになります。
おかみさんのパニック。ここがクライマックス! 噺家のウデの見せどころ。


「なんだってエ、あれが、あの太鼓が、三百両」


「ホントなのかい。あら、ちょいと、おまえさん、ウソだろ、三百両、見せてごらんよ」


「ほら、さあ、早く、さっさと見せてみろってんだ、こんにゃろ、出して見せやがれッ!」


ここの豹変ぶりに気持ちがついていけるかどうかが醍醐味です。


客席は全員、おかみさんに感情移入して、前のめり。


見せやがれ! って、ほとんど逆上しているおかみさんに、こっちはとっくに破裂しちゃっているついでに生きてる亭主は言います。


「バカヤロー、なに言ってやがんだ。ホントなんだ。どうだ、これ、見やがれ!」


「いいか、ほれ、これが五十両だ! 五十両の束だ!」


「ありゃま、ちょいと、お前さ~ん」


「ほれ、これで百両! んでもって、これで百五十両! どうだあ!」


「大変、大変だよ、お前さ~ん」


「まだまだあんだぞ、ビックリしてバカになっちゃいけねえぞ!」


で、三百両が目の前に並んで、少女漫画の目、瞳の中に星があるキラキラアイになったおかみさんが言います。


「ちょいと~、お前さん、なんて商売上手。儲かるねえ、一分が三百両。これからは音のするものに限るねえ」


「おおよ、今度は半鐘を仕入れてくる」


「いいや、お前さん、半鐘はいけないよ。オジャンになっちまう」


これが「火焔太鼓」って噺なんですが、半鐘とジャンっていう関係が分からないだろうってんで、サゲをいろいろ工夫している現状なんですが、サゲ、オトシが問題じゃないんです。


このおかみさんの魅力ってもんを、泣き笑いで伝えられているかどうかで、噺は終わっているんですよね。
世の中、こんなうまい話しあるわけない、ってそういうことじゃなくってね。


よかったねえ、おかみさん。っていう気持ちに共感できるかどうか。そういう空気にもっていってくれるかどうか、そこが落語のチカラってもんでしょうね。


ついでに生きてる、ってね、何のついで? ってことになるんだと思いますが、そこに生きているっていう本質があるのかもねえ、って思うでありますよ。はい。


おあとがよろしいようで。