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【ブログ記事との向き合い方】「不易流行」「序破急」「守破離」 心構えを考える

< 「ブログ道」? いやいや そこまでのことを言えるような者ではござんせん 考えるだけです >

もちろん、いろんな考え方があって、単にブログ記事を書くって言っても、その行為をする自分との向き合い方も人それぞれだと思います。


数いるブログ運営者の中には、記事を書き続けることに煮詰まってしまっていたり、最近ちょっと記事を書くことから遠ざかってしまっているなあっていう人も少なくないと思われます。


今回は、記事の書き方とか、記事ネタの見つけ方っていうことからはちょっと離れて、まあ、ブログに限らないんですけど、記事を書くにあたっての心構え、みたいなものを、昔の人に倣いながら考えてみたいと思います。


散文を書くっていうのは、どうゆうことなのか。昔の人もいろいろ考えているはずですもんね。

 

 

 


日本人が日常生活の延長ではありながら、言葉を使って「芸術的表現」をするようになったのは、いつ頃からなんでしょうか。


書き言葉が入ってきた平安時代からのようにも考えられますけど、書き遺さずとも和歌が語り言葉で伝えられていたっていうこともあり得ないことじゃないように思えます。


ただ、形式、みたいなものが定型化していくのは、やっぱり書き言葉が入って来てからなんでしょうね。


五と七っていう語感の良さを昔から感じていたとしても、話し言葉では単音を数えたりしないでしょうし、文字に表してみて初めて数字として認知できるような気がします。


10世紀初期には成立したっていわれている「古今和歌集」は、勅撰和歌集として日本最初のものですが、有名な「仮名序」に、紀貫之はこう書いています。


「やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける 世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり 花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける 力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり(後略)」


書き文字としての漢字を「真名(まな)」ひらがなを「仮名(かな)」って言っていた頃の「和歌論」って言える文章ですけど、「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ」るのが和歌なんだって言ってますよね。

 

 

やまとうた。
もう、人智をはるかに超えたナニモノかが、歌を詠む側にないと、優れた歌なんて詠めませんよ、ってことなんでしょうね。


でもまあ、タネは人の心だっていうことですね。知識とか学識じゃないです。


時代が進むと、五七五七七の和歌を、五七五の発句部と、七七の脇句部に分けて、複数人で交互に詠んでいく「連歌(れんが)」っていう形式で楽しまれるようになっていったんだそうですね。


尤も、歴史的なことはハッキリしていない部分も多いみたいで、連歌奈良時代から歌われていたっていう説もあります。


江戸時代になると発句部と脇句部の掛け合いで滑稽味を出すのが流行ったそうで、数人で発句部と脇句部を連続して詠んでいく「俳諧」っていうのが定着していったそうなんですね。


この俳諧の中に登場してくるのが松尾芭蕉です。


俳諧の中で、その時のテーマをコントロールする役目を果たすのが、最初の五七五なんだそうですけど、この最初の発句が独立して、今でいう「俳句」になったんだそうです。

 

 

 


松尾芭蕉って言えば俳句の人っていう認識だと思いますけど、自身では、あくまでも俳諧って言っていたんだそうです。


「古池や かわず跳びこむ 水の音」五七五。


ほら、続けて、つづけて、ってことなんでしょうけど、俳諧ね。
どやって続けろっちゅうんじゃ! って感じですよねえ。


「古池や かわず跳びこむ 水の音」
「手ぬぐいわすれ あわてて戻る」七七。


だはは。目に見えぬ鬼神に怒られるわ!


松尾芭蕉については、いろんな本が出ていますし、いろんな解説もあります。


句を作るにあたっての心構えみたいなことなんでしょうけど「不易流行」っていう言葉を遺しているんですよね。


まあね、いろんな解釈があるんですけれど、ビジネスの極意、みたいに解説しているのも見かけます。
ものを書く姿勢じゃなくって仕事をする上での心構えってことですね。


そういう金言、格言が好きな人って少なくないですもんね。


「不易」っていうのは、変わらないもの。「流行」っていうのは、ハヤリっていう方じゃなくって、流れていくものってことなんですけど、本質は同じですよ。自分たちのビジネスの伝統を踏まえたうえで、今を取り入れましょう、っていうふうに言っていますね。


ほほう、そですか。って感じで、ビジネス格言としてはそゆことなのかもですけど、俳句を詠じる。ものを書くっていう観点から考えてみますと、不易と流行の本質は同じっていう解釈は、ちょっとズレているようにも感じます。


不易を表す言葉から受け取る概念。流行を表す言葉から受け取る印象。


相反する2つのイメージから導き出される1つのイメージ。
それが受け手の余韻につながるんじゃないでしょうかね。
モンタージュ、みたいなことなのかなあと。


何と何を組み合わせるか。文章が長くなれば、それは2つに限らないでしょうけれど意識すべき効果は同じでしょうね。


不易と流行と、その意外性を感じさせようとするのか、その同質性に気付かせるのか。
そういう、書く前の狙いを意識する、みたいなのが「不易流行」なんじゃないのかなあって思います。


俳句みたいに短ければ短いほど、その技量は難しいものになるんでしょうけど、それを読む人、聞く人を文を作る側に取り込んでしまおうっていう態度。
ま、芭蕉さんに直接聞いたわけじゃないですけどね。

 

 

 


文章って言いますか、物語りの方法として有名な言葉に「序破急」っていうのがありますね。


世阿弥の「風姿花伝」の中に出てきて有名になったんで、世阿弥の言葉です。っていう解説も散見しますけど、そうじゃないですんですよね。


古くからある雅楽の舞の調子の概念だそうで、そこから能に限らず浄瑠璃や歌舞伎に伝統的に使われているものです。
映画、舞台なんかで今でも「序破急」ってやっていますし、国際的にも三幕構成って主流ですよね。


静かに始まって、徐々に熱を帯び始めて、一気に盛り上がって終わる。
これが序破急ですね。


起承転結にあてはめて「起承」が「序」、「転」が「破」、「結」が「急」っていう説明もよく見ますけど、個人的には「起承転結」と「序破急」は、物語りを作るうえでは別物って考えるべきだと思います。


そもそも同じだったら、言葉を違えて2つが並列に存在している理由はないですよね。
同じなわけないです。


物語りの始まり方じゃなくって、終わり方の違いを意識して、どちらが適切かって考えて選べばイイんじゃないでしょうか。
「起承転結」と「序破急」ね。


極端に違いを言ってしまえば、起承転結の終わり方は、受け取る側が納得できるもの。ハッピーエンドでもバッドエンドでも、納得できることがカタルシス


対して序破急の終わり方は、激しく動いてサッと終わる。受け取る側の余韻がカタルシス


ま、無理矢理の区別ですけどね。


構成を考える上では、終わりが見えていないと始まらないってことになりそうです。


千利休の教えとして「規矩作法 守り尽くして破るとも離るるとても本を忘るな」っていうのがあります。


これは「守破離(しゅはり)」って言われて伝えられていますね。


お茶をやっている人にはお馴染みの言葉だと思います。


習い事は、師匠の教えを「守る」ことから始まる。


師匠から教わったことをしっかり自分のものに出来たら、その型を「破る」ことで、流派の型を守りながらも自分なりの型を創り上げる。


自分なりの型が納得できるレベルになったら、型そのものから「離れる」


これが守破離ですね。
ものを書くっていうことには、何の関連もないように感じられるかもしれませんが、序破急と相通じる考え方があるように思います。


茶道っていう「道」の考え方は日本独特のものなんだそうですね。
お茶に限らず、日本の芸事は、武道も含めてなんでも「道」ですもんね。


自分なりの型に向かって、これまで修行してきた型を破るっていうのは、かなり難しいでしょうし、かなりシビアな考えがないとそういう行動には出られないでしょうね。


ただ、独自の型っていうものを確立するに際して、元々の型を忘れるなっていう教え。
独自の、って言っても、それが派生してきた元々の型に原型があるわけですもんね。
立ち返る場所でもありますしね。


序破急に比べれば、かなり長い年月をかけての守破離っていうことでしょうけれど、大きな括りで考えれば、その型を受け取る相手がいて、その相手がどう受け取るかが重要っていうのは同じだと思います。


お茶にも客、受け手がいますからね。


必ずそうすべきっていうことではないんですが、ブログ記事を書く前に「不易流行」「序破急」「守破離」っていうことを意識して、メタレベルの観点を持つ。っていうことがイイのでは、っていう結論でありますです。