< 「人類は」とかエライ人たちが言うとき 人類って限られた人だけなのかな? >
地球規模で考えればまだまだ今回のパンデミックを抜け出せたとは言えないみたいですが、どうやら新型コロナウイルス禍も人類の滅亡に繋がることなくやり過ごせそうですね。
でも共存なんだそうです。やっつけない。
これまでに人類が撲滅できた感染症って1980年にWHO(世界保健機関)が根絶を宣言した「天然痘」だけなんですね。1つだけです。
根絶だの撲滅だのって言ってもですね、相手も生き物ですからね、「ポリオ」だとか「ハシカ」だとかもどうやら根絶できそうだって言われていますけれども、なかなか難しいことなんでしょうね。
ヤツらも必死です。
これからも人類はどんどん進化して、感染症を克服していくことでしょう。
はいはい、そう願いますです。
って言いながらですね、こういう表現をする時の「人類」って、ホントにこの地球上の人間、全員のことなんでしょうか。なんか違うような気もするんですよね。
人類ってひと言で括れるのは基本的には二足歩行の動物だっていうぐらいの、地球上の生命体として他の生き物と区別するときぐらいで、進化してますよとかいうときの人類は、どうもね、階級とまでは言いませんが、全員じゃないでしょ感があります。
スマホは相当浸透しているアイテムだと言えるでしょうけれど、「使い方教室」なんてのがありますね。
スマホは手のひらに収まるコンピュータっていう表現は大袈裟じゃないんですけど、コンピュータ科学の進歩があって、スマホの機能も進化してきたわけです。
現状のコンピュータ科学のごく一部、しか享受できていないスマホとはいえ、もう今の段階で一部の利用者のキャパシティを超えているっていうのも事実だっていうことですよね。
この辺りが不思議なところなんですが、ちっちゃい子供が本能的に使えているようなスマホの機能を、けっこうな大人が使えていないっていうことが少なくないんだそうですよ。
マン・マシン・インターフェイスに世代っていうのがあるのかも。
使い方教室に行こうっていうぐらいの人にはガッツがあって、積極的に新進の機械を使っていこうとしているわけですからエライと思います。
で、教室である1つの機能の使い方を覚えて、仲間に披露しますね。
「ほうほう、凄いね。でも、よく分らんわ」
「いや、だからさ、こうするんだよ」
「ああ、うんうん」
って感じの会話を町中華なんかで聞くことがあります。
「難しそうだから」っていう理由でスマホを敬遠している人も少なくないんですよね。
「最近の進化にはついていけんわ」っていう声も聞こえてきます。
こういうケースの場合、進化しているのはツールの方で、それを使う側の人間はオベンキョしないといけないっていう状況です。
そもそもこの機能って何のためにあんの? っていう感覚があります。私もそっち派。
スマホは確かに人類の科学進化の賜物ではあるんですが、ツッコんで考えてみますと、スマホの基盤を作っているというか設計している人が居ますよね。
最初に考えた人がいて、どんどん進化させている人が居るわけです。
使っている人じゃなくって、作っている人。
そして、その基盤に乗っかっているオペレーティングシステムを設計、プログラミングしている人が居ます。
スマホが通信しているサーバも同じように、基盤があって、オペレーティングシステム、通信プログラム、それぞれのアプリケーションプログラムが動いていて、それらを開発、制作している人が、当然ながら居るわけです。
スマホを使うことに躊躇している人が居て、少し使える人が居て、使いこなしている人も居ます。
つまりスマホユーザにも段階があるってことになるわけなんですが、その中身、そして通信先の仕組みを作っている人が、これまた何段階にも別れて存在しているんですね。
コンピュータ科学が進化してきたのは事実ですし、今回のコロナワクチン開発にも大いに貢献したことは良く知られています。
でもまあ、誰でもがコンピュータ科学に通じているわけじゃないですし、そのサービスを提供する側と享受する側では、とんでもなく大きな差があって、それは今もなお開きつつあることは明らかです。
ソフトウェアの世界にオープンソースという考え方が入ってきてからけっこうな時間が経過してきました。
コンピュータ科学の進化を提供する側も、誰もが同じ進化を経験してきたわけではないんですね。
そんな大きな時間が経過しているんですよ。
ソフトウェアの機能は、ある意味発明品のような側面を有していますから、著作権をめぐる争いを数え上げれば枚挙にいとまがありません。
オープンソース以前のことですが、「巨人の肩の上裁判」と言われる争いもありました。
既に発表されているソフトウェア機能に機能を付け足すことは、著作権違反かどうかの裁判です。
判決としては「巨人の肩の上原理」は著作権と両立するっていうものでしたね。
「原理」とまで言われている「巨人の肩の上」っていうのは、「先人の積み重ねた発見に基づいて何かを発見すること」とされています。
コンピュータ科学に限らず、歴史上に残る実績を、過去の偉人たちが積み上げてきた。その実績の積み重ねを巨人に例えて、現代人はその肩の上に乗って、さらに遠くを見ることが出来るってことですね。
これは別名、科学の進歩の「ニュートン仮説」とも言われています。
アイザック・ニュートンが1676年に、万有引力の先取権をあーだこーだ争っていた、同じイギリスの自然哲学者、建築家、博物学者のロバート・フックに宛てた書簡に記された文言がその名前の由来です。
「私がかなたを見渡せたのだとしたら、それは巨人の肩の上に乗っていたからです」
この言葉自体はニュートンが言い始めたものじゃなくって、12世紀のフランスの哲学者、シャルトルのベルナールっていう人。
12世紀時点でのフランスの学者たちを、古代のギリシャ、ローマの学者たちに比較して、
「私たちは巨人の肩の上に乗る小人のようなものだ。私たちが彼らよりもよく、また遠くまでを見ることができるのは、私たち自身に優れた視力があるからでもなく、ほかの優れた身体的特徴があるからでもなく、ただ彼らの巨大さによって私たちが高く引き上げられているからなのだ」
古代からの科学の積み重ねの上に立つことで、進化できるっていうことなんでしょうね。
12世紀の人。凄いもんですねえ。1000年近く前の人ですよ。
確かにソクラテスとかプラトンとか、そういう巨人たちが確立した物事の考え方って、21世の我々の誰もが理解しているってことじゃないですけれど、最先端の科学者たちにとっての基礎になっているんだろうなあ、っていうことは想像できます。
巨人の肩の上に乗るっていうこと自体、乗る人を選んでいるのかもです。
ぼんやり暮らしている人は巨人の肩になんか登ろうとさえしませんしね。
限られたエリートたちこそが科学を進化させる、進化させてきたってことですよね。
科学の進歩の「ニュートン仮説」に対して、
「科学の進歩は、多数の平凡な研究者たちの仕事の総体の上に構築されるものである」
という見解もあります。
1929年にスペインの哲学者「ホセ・オルテガ・イ・ガセット」が提唱したもので、科学の進歩の「オルテガ仮説」と呼ばれています。
ある特殊な部分だけ、特定の人たちによって進化するのではなく、庶民も理解できるようなレベルからこそホントの進化がある、ってな感じでしょうかね。
ん~。
科学を発展進化させる人が居てくれないと困るようにも思いますが、その進化が誰にでも共通に享受できるってものでもないんでしょうからねえ。難しいもんです。
科学を進化させるには政治的な工夫も必要でしょう。基礎研究に対する予算配分が問題視されたりしていますが、バラマキとか言われちゃってるおとなしいポピュリズムに問題がありそうに思えます。
意味のある使い方が出来ていないってことなんでしょうね。
特にデジタル文化に関して言えば、そもそも日本政治の中にデジタルが存在していない感じですもんね。
1つの国の中で、科学進化の享受の仕方に個々人で差があるのは致し方のないことなのかもしれませんが、巨人の肩の上に乗っている人が圧倒的に少ないのかもしれませんよ。
日本の中では乗るべき肩を持った巨人が居ないからなんでしょうか。
ノーベル賞受賞者はけっこう居るように思いますがね。どうなんでしょう。
今、世の中ってこうなっていますよ、っていうようなことをまともな言葉で、誰にでも分かるように説明してくれるようなホントの優れた人が出てきてくれないと、これからもどんどん、知っている人と知らない人、持っている人と持っていない人の差が開いていくばかりに思えます。
メディアの役割に期待します。ジャーナリズムの復活を望みます。
格差っていうのは経済状況ばかりじゃなって、科学の理解にもありそうです。情報格差ってやつですね。
どうもね、メディアなんかも、代替案なしの批判ばっかりで終わっちゃってますもんね。
もうバラエティばっかりの姿勢から脱却すべきタイミングなんじゃないでしょうか。
進化、人類の進化のスピードが、一般人の生活感を伴っていない段階まで来ているんだとすれば、今は進化の踊り場で立ち止まって考え直すことを優先することで、日本なりの再出発が見えて来はしないでしょうかね。
例えば、メディアは日本の賃金が安いままだっていうことを批判的に取り上げていますが、その賃金で買う物品の値段も変わらないままなんですから、ツッコむべきところは賃金の安さってトコじゃない感じがします。
こういう辺りから意識を変えていく工夫が欲しいところです。
パブロ・ピカソはこう言っていましたね。
「芸術はそれ自体、発展することはない。思想が変り、それとともに表現形式が変るのである」
もう1つ。1995年に翻訳出版された「今日は死ぬのにもってこいの日」
アメリカの白人作家「ナンシー・ウッド」がアメリカ先住民の哲学を分かりやすく書いています。
「わたしは世界の進歩よりも一匹のアリの旅行にもっと深い意味を見た」
「世界の進歩なんてものは、今やスタートラインのはるか後方へ落伍している」
世界の多様性は人類の幸せにつながっていたはずなのに、日本はもはや先進国じゃないっていう表現で目指しているものがなんなのか、日本独自っていうのを明確にしてくれる「巨人」って誰なんでしょう?
居るでしょ、日本に、ね。誰? ん~。。。