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【哲学の道】西田幾太郎の方じゃなくって、井上円了の方の話

< 東京中野 哲学堂公園哲学の道は妖怪も思索を深めながら歩くのかもです >

よく調べもしないで、ずっと勘違いしたまんま暮らしてるってことがちょくちょくありまして、先日、文庫本の整理をしていて「善の研究」が出て来て、ふむふむって久しぶりに開いて見て、あれ? ってショックを受けたんでした。


著者は言わずと知れた「西田幾多郎(1870~1945)」ですよね。


ず~っとですね「いくたろう」だと思ってました。「きたろう」なんですね。


西田哲学とか、口に出すときは名字までで、名前を口にしたことが無かったのかもしれませんが、数十年の勘違い期間ってこと。
そもそも最初に「いくたろう」って読んだのはなんでだったのか、さっぱり記憶にありませんが、それ以来ずっと「いくたろう」って思っていて疑いもしませんでした。

 

 

 


「善とは一言にていえば人格の実現である」っていう世界レベルの哲学者、西田幾多郎琵琶湖疏水沿いの道を思索を巡らせながら、よく散策をしていたそうで、その2キロメートルほどの道程は日本の道百選にも選ばれている「哲学の道」って呼ばれていますね。


写真でしか知りませんが、哲学の道は古都の郊外っていう雰囲気があって、落ち着いた散策道って雰囲気です。
春の哲学の道、桜並木の写真をよく目にしますが、今も変わらず静かなたたずまいを残していてくれるんでしょうね。


京都府左京区京都大学の東、銀閣寺と南禅寺をつなぐ「哲学の道」です。


東京中野区に「哲学堂公園」っていうのがあって、公園の中の小径もまた「哲学の道」っていうんですよね。
中野区立公園なんですが、南東部分は新宿区西落合に入っています。


哲学堂公園」は、仏教哲学者「井上円了(1858~1919)」が「哲学堂」を建てたんで、そのまま公園の名前になったそうなんですね。2009年に東京都の、2020年に国の名勝に指定されています。


東京の「哲学の道」もなかなかなんですよ。


哲学堂」には「ソクラテス(紀元前470~紀元前399)」「イマヌエル・カント(1724~1804)」「孔子(紀元前522~紀元前479)」「釈迦(紀元前7、6、5世紀?)」の4人が祀られていて、後に「四聖堂」っていう名前に代わっています。


辺り一帯を「哲学堂公園」っていう名前にしたんで「四聖堂」って変更したのか。その辺の事情はよく分かりませんです。「資生堂」じゃないです。はい。


現在の東洋大学を設立した井上円了は、お釈迦さまも哲学者として祀っているんですね。
たしかにね、仏教そのものが哲学っぽい感じはします。ん~、安直な感想ですけどね。
仏教に詳しいわけでもなし。


孔子っていう人に対してもまた、哲学者っていう表現にピンとこない感じもあるんですが、思想家って哲学者の東洋版、みたいなことなんでしょうか。


そもそも思想家と哲学者って違いがあるの? って思って調べてみましたらですね、精確に言えば違うんでした。


哲学者は「〇〇とはなにか」「〇〇とは△△である」っていうふうに、「とは」っていう言葉を使ってものごとの真実を追求するっていう態度なのに対して、思想家は「○○はどうあるべきか」っていう「べき」を主張するっていう違いがある、んですってさ。


この説には、そうかなあって思っちゃいますね。


なんだかウマイこと言い分けた感じはありますけれど、哲学者であれ思想家であれ、全てについてそういう言い方をしているとは思えませんし、洋の東西、言語特性の違いだけなんじゃないかって気もします。知らんけど。


孔子っていえば「論語」ですよね。
「子曰く」ってやつ。


日本にも学問といえば論語、っていう風潮の時代があったみたいですよね。


いつごろから日本人の論語離れが始まったのか全然分かりませんが、個人的に論語なんてほぼ知りません。そもそも接して来なかったっていうのが実際のところでしょうか。
今はガッコのセンセだって、そんなに知らないって人が多いんじゃないでしょうかね。偏見?

 

 

 


こんなのがあります。


「子曰 知者楽水 仁者楽山 知者動 仁者静 知者楽 仁者寿」


論語通(?)が普通に言うときは最初の2つに絞るみたいで、「仁者は山を好み、知者は水を愛す」とか言うみたいなんです。


「知者楽水 仁者楽山」


四字熟語を2つ並べた感じですけど、あちこち見てみましたけど知者、仁者ていうのがそもそもどういう人を言っているのか理解できないんで、ただ、ふううんってだけの響きしか感じません。


知恵のある人は、まるで水が流れるように知恵を働かせるんで、水、川の流れを楽しむだろう。


仁徳の備わった人は、ガツガツと動き回ることがないんで、悠然として動かない山を楽しむだろう。


とかね、そんなふうなニュアンスみたいです。


「知者動」「知者楽」っていうのと合わせて考え見ますと、知恵のある人は河の水の流れを楽しんで、動き回るからいろんなことを経験して、楽しい人生を送るだろうって、そゆことを言っているんでしょうかね。


一方「仁者静」「仁者寿」っていうわけですから、仁徳のある人は山を楽しんで、ジッと静かに冷静にしているから長生きするだろう、ってことでしょかねえ。


「知者楽水 仁者楽山」ってだけだと、いろんな解釈が出来そうですし、し、いはく、とか言われても、だから? って感じになっちゃいませんかね。


井上円了論語解釈本っていうのを読んだことがありませんので、哲学の四聖の1人に孔子をあげているその人がどのあたりをどう評価しているのか見当もつきませんね。


たくさんの著作を遺している井上円了ですが、そのタイトルだけからすると論語そのものをテーマにした本は無いのかもしれないですけれどね。


興味深いのは「妖怪学講義」「おばけの正体」だとか、いくつも妖怪の本を著していて「妖怪博士」っていう異称を持っていることですね。
わっはっはっていう研究態度じゃなくって、妖怪を研究することは人類の科学の発展に寄与するってことで、めっちゃ真剣。


科学で解明できない妖怪は「真怪」


自然現象によって発生する妖怪は「仮怪」


誤認だとか心理的要因によって現れる妖怪は「誤怪」


利益だとか何かの目的を持って人間が作り出した妖怪は「偽怪」


っていうふうに区分けして、それぞれに対して研究を進めていたらしいです。

 

 

 

今の公園として整備される前の哲学堂の正門は哲理門。別名妖怪門って言われています。


門に向かって右側には幽霊、左側には天狗の像が仁王様よろしく立っておられますよ。


井上円了が収めた像そのものじゃなくって、レプリカなんですけどね、このレプリカが評判悪いんです。
なんとなあく、チープ。


かといって、おそらく誰もホンモノを見たことはないんじゃないかって思うんですけど、レプリカは魅力無いってことで、哲学、台無しだよ、なんて言われております。


天狗は物質界の不可解、幽霊は精神界の不可解を象徴しているんだそうです。


哲学堂公園内にはテニスコートと野球場もあって、そこそこの広さがあります。


哲学の道をうろうろしてみますと、なんだこれ? っていうのにたくさん出会います。
「七十七場 名称案内」っていう看板もあるぐらいですからね。いろいろあるんです。

 

 

 


そんなに人が集まってくるような場所じゃないですし、静かで、この世の不可解を考えてみるには絶好の場所だと思います。


最近、全然行けていないんで、近々、幽霊と天狗に会いに行ってこようかなって思っています。
評判の悪いレプリカなんですけどね。


知者でも仁者でもない身の上としては、河でも山でもなく公園散策がイイ塩梅でしょうかね。