<ウの付く食べもの ンの付く食べもの かつての日本人が大事にしてきたこと>
「ンをウンと読む利巧者」という言葉が記憶の奥の方にあって、何の脈略もなくふと思い出して、はて、なんのことだったかと頭をひねりました。
確か、と言いながら何とも不確かに思い出したような気になったのは、夏目漱石と正岡子規の茶飲み話、みたいなもんだったかしらん。というものだったのですが、調べてみると全然違っていました。
「ンをウンと読む利巧者」というのは、坂口安吾の「新作いろは加留多」という掌編に出てきたものだったのでした。
1941年、昭和16年の作品ですが、
「い:犬も歩けば棒にあたる」「ろ:論より証拠」「は:花より団子」というのがいろは加留多で、いろはにほへと、には「ん」がないから、加留多にも「ん」で始まる札がない。
そこで「ん」で始まる言葉を思いついたんだけど、という、坂口安吾と北原武夫の会話から出てきた言葉だったのでした。
そうやって分かってみればなるほど、「ンをウンと読む利巧者」というのは俳句形式でもなんでもない。加留多の言葉であることには、すんなり納得がいきます。
いろはにほへと、には「ん」が最後にある、という説もネット上ではけっこう見ますけれど、「ん」が付いたのはかなり後付けなようです。
平安時代初期にはあったらしい「いろは歌」の歴史から考えてみますと、地域による違いもあるかとは思いますが、坂口安吾を信じますと昭和前期まで「いろは歌」に「ん」は無いので、長く続いた伝統を変えたのは戦後教育だったのかもしれません。
もちろん学校で教えていたのは「あいうえお」なわけで、「いろはにほへと」は明治時代以降、「教育的観点」からどんどん変更が加えられていったようです。
加留多ぐらいにしか残っていなかった「いろは歌」という状況になって「あいうえお」にあって「いろは」になかった「ん」が加えられてんじゃないでしょうか。
「総領の甚六」と言ったって何のことか分からない、っていうんで「そ」の札は「損して得取れ」に差し替えされたりしたこともあるそうです。
なんかね、加留多が殺伐としてしまった感があります。
加留多はなんといっても家庭内の遊びですから、地域差もけっこうあって、関西方面での「そ」の札は「袖すり合うも他生の縁」だそうで、これもまた現代では、どんな意味か、というクイズになったりしているほど意味が通じなくなっている言葉ではありますね。
坂口安吾のいろは加留多に対する思い付きに限らず「ん」で始まる言葉って、日本語には無さそうですね。
ふっと思い浮かぶのは「ンゴロンゴロ」という土地の名前。
タンザニアの自然保護地域で、マサイ語では「大きな穴」という名前なんだそうですが、現地のナチュラルな発音が正しく「ん」で始まるのかどうかは、分かりません。
世界的に「ん」と発音するときは唇を閉じるのが普通でしょうから、地球上でも「ん」から始まる言葉は珍しいのかもしれませんね。
「ンゴロンゴロ」の「ん」にしても、唇を閉じた「ん」ではなく、舌先を上あごにつけて発音する「N」のような鼻濁音的な「ん」なのかもしれません。
改めて考えてみますと不思議な一音です、「ん」
坂口安吾も実は知っていたのではないかと思うんですが、日本には「ん」を「ウン」と解釈する風習がかなり古くからあるようなんですね。
冬至に食べるもの。「ん」がつく食べものは「運(ウン)」が付く縁起物。なので冬至には「ん」が2つ付く食べものを食べるのが良い。邪気を払って2倍の運を身に付ける。ウンウンってわけです。
今でも冬至に「かぼちゃ」を食べますよね。かろうじて残っている「決められた日に決められたものを食べる」という昔から日本の風習。
「かぼちゃ」は「南瓜」と書いて「なんきん」とも読みます。
「ん」の2つ付く食べもの。
「なんきん」のほかには「蓮根:れんこん」「人参:にんじん」「銀杏:ぎんなん」「金柑:きんかん」「寒天:かんてん」「饂飩:うどん」
この7品を「冬至の七草」「冬至の七種」などとも言うそうです。
「うどん」が苦しいところですが、正しくは、とか、昔は、とかいう説明では「うんどん」というんだそうですが、どうなんでしょ、と思います。
無理矢理「7つ」にこだわったのかもしれませんよね。
北半球では、一年の中で最も昼間の時間が短い日が冬至です。
さあ明日からまたお日様が元気に復活し始める。それに合わせて我々もこれを食べて、ひとつ気張っていきまっしょい、っていうのが「冬至の七草」なのだろうと思います。
養分、成分的にいろいろ考えられた食べものたちなんでしょうね。単に語呂合わせ、迷信、などと片づけてしまわず、昔からの日本の風習に従って「決められた日に決められたものを食べる」というのも悪くないのでは、と感じます。
気は心、といいますか、何か対策しているという具体を実現することって、大きいと思います。
決められた日の決められた食べものと言えば「土用のウナギ」の風習もいまだに続いていますよね。
今は無駄に高級品になってしまいましたけれどね。居ないんだそうです。ウナギ。
エレキテルで有名な江戸末期の発明家、平賀源内が、世話になった鰻屋が夏は商売にならないと嘆いていたので、なんとかしてやろうと考え出したのが「土用丑の日」
で「う」のつく食べものを暑気払いに食べる風習になったというんですが、平賀源内起源説以外にもいくつかあるようではあります。
でもまあ、そのへんは、なんか面白そう、な説をとっておいてイイんじゃないでしょうかね。
土用の暑気払い、身体を弱らせる要素を追っ払うには「ウナギ」です。
土用に食べるべきものとして、冬至と同様にいくつか定番とされている食べものがあります。
「牛」そもそも「土用丑の日」なわけですから、まっとうですよね「牛」って。ま、ヨツアシですから平賀源内の時代は大っぴらに食べるものではなかったという事情があるんでしょうけれどね。
「瓜(うり)」「梅干し(うめぼし)」そしてまたまた登場「うどん」です。
土用のうどんって、冷やし盛りうどんとか、ぶっかけうどんとか、冷たいやつのことなんですかね。
冬至にも土用にも出てくるのが、うどんだったから思うのかもしれませんが、この「決められた日に決められたものを食べる」っていう風習のそもそもの始まりは、関西、当時の都であった京都の風習だったのかもしれないなあ、となんとなく思います。
でも京都はうなぎというより「はも」のイメージですかね。
冬至の「ん」の食べものも、土用の「う」の食べものも、コンビニでやってくれても良さそうな気がします。
レンチンでお気軽お手軽に「決められた日に決められたものを食べる」風習を続けていく。
アフターコロナの日本を考えるうえで、こうした昔からの風習を見直してみるっていうのも、案外、背筋をピンとさせてくれる、日本人の原風景を捉えなおす一つのきっかけになるように思います。
かぼちゃもうなぎも、国産のものはかなり希少価値になってしまっていること自体、考えものなのかもしれません。
日本、がんばれ!