< 切り花 みんないろいろ工夫してやってきているんですよねえ 信じる者は救われる? >
ぴ~太郎うさぎの一家が街のマンションに越してきてからずいぶんな時間が経って、きょうは1人娘のビアトリクスが学校を卒業して久しぶりに家に帰って来る日です。
お母さんうさぎは、居間のロッキングチェアに深く座りながら、小さなころからのビアトリクス成長のアルバムを静かに繰っていました。
学校にいる間、ずっと寮生活だったビアトリクスは家に帰って来られない年もあったので、これからしばらくはまた一緒に暮らせるであろう時間のことを考えると、なぜだか、昔の、ほんの小さかったビアトリクスのことがあれこれ思い返されてきて、他の人から見ればなんでもない1枚の写真も、お母さんうさぎに実の多くの言葉を投げかけてくるので、お昼を食べるのも忘れて、ずっとロッキングチェアから動かずに1人過ごしていたのでした。
ぴ~太郎うさぎも、きょうは大学での研究を早めに切り上げて帰ってくるはずです。
早く娘に会いたくって、手元がおろそかになっているんじゃないかしら。
そう思ったちょどその時、テーブルの上のスマホが鳴りました。
ぴ~太郎うさぎからのショートメッセージです。
「大学の近くの花屋さんには、ひまわりがないんだけど、どうしょう」
ベアトリクスはちっちゃい頃から花が大好きで、ベランダの花壇でいろんな花を育ててはこまめに世話をしていたのでした。
中でも一番のお気に入りがひまわりで、ベランダに置くには大き過ぎるぐらいのプランターを買ってきたのも、背の高い、大きな花冠のひまわりを自分で咲かせたいという、まだしゃべり始めたばかりのベアトリクスの願いだったからでした。
両親にとって、しばらく満足に会えていなかった娘が卒業して帰って来る日ですからね、ぴ~太郎うさぎは、大学での研究なんてそっちのけで、ビアトリクスの大好きなひまわりを探していたのでしょう。
「今はひまわりの季節じゃありませんよ、花屋さんを困らせないで。あなたが早く帰って来てくれればビアトリクスは満足でしょう」
お母さんうさぎは微笑みを浮かべながら返信します。
そして思い出して、追伸しました。
「ビアトリクスの学校は卒業生に独立独歩の花束を持たせてくれるはずですから、花は自分で持って来ますよ」
花束をもらうことに本当の喜びを感じるのは、女性特有のことだという人もあります。
ビアトリクスの学校は女子学園で、卒業の時に、一人前の女性になりましたっていうことで、花束を持たせてくれるのが恒例になっていました。
電車とバスを乗り継いで帰って来るビアトリクスは、その道中、その花束を抱えて、同乗している人たちみんなに明るい笑顔を振りまきながら、幸せな気持ちで帰って来るはずです。
と、またショートメールです。
「花瓶だね。花瓶を買って帰ります。そうだ、花瓶だよ」
「はい、はい。平常心でね」
お母さんうさぎはニコニコと返信して、そこでふっと、お昼を食べていなかったことに気が付いて、どうやら自分も平常な気持ちではいなかったことに思い至りました。
今度は声を出して笑いながら、夫と娘を迎えるささやかなホームパーティの準備にとりかかりました。
パーティといっても、特別なことをどちらかというと好きではない家族です。
お母さんうさぎの手作りパイと、とっておきの山桃ティー。
楽しく懐かしいお話をたっぷりした後は、ごく当たり前の食事にするのです。
お母さんうさぎは、はしゃぎ過ぎた後にやって来る、そこはかとない寂しい気持ちっていうのが嫌いなのでした。
普通が、普通で、シアワセなのです。
「お母さん、ただいま帰りました~」
「お帰りなさいビアトリクス。卒業おめでとう」
母娘は静かな笑顔を見交わしました。
思った通りビアトリクスは大きな花束を抱えていました。
「すごく大きな花束ね。きれいなお花」
「そうなの。卒業式の体育館はむせかえるような花の香りでいっぱいだったのよ。さっそく生けないといけないわ。お母さん、手伝ってね」
「はいはい。きょうの花束は予想していましたからね、家の花瓶を集めて、洗って、きちんと風を通して乾燥させてありますよ。さあ、キッチンのテーブルに運んでちょうだい」
ビアトリクスは昔馴染みのキッチンテーブルに大事に抱えてきた花束を置いて、ちょっと呆然としています。
「どうしたの、ぼんやりして」
「だってお母さん、このキッチンテーブル、こんなに小さかったかしら」
「それだけお前が大きくなったんですよ、ビアトリクス。わたしもビックリしていますよ」
そのことについて、納得出来たような、でも不思議なような表情を浮かべながら、ビアトリクスは丁寧にラッピングを外します。
お母さんうさぎは、シンクに小さなバケツを置いて水をため、手入れの行き届いた、よく切れる花ばさみを用意しました。
ビアトリクスがキッチンテーブルに花を丁寧に並べている間に、お母さんうさぎは大小さまざな花瓶を用意します。
ビアトリクスは慣れた手つきでバケツに溜めた水の中で花の茎を切る「水切り」を始めました。
「あとはわたしがやるから、お母さんは休んでていいわよ」
「あら、いいのよ。お花を見ているだけでも楽しいんだから」
すっかり大きく育った娘を見ているだけで、なんとなく幸せなお母さんうさぎです。
「このハサミはよく手入れされていて、気持ち良く切れるわ。さすがお母さんね。こうして茎を斜めに水の中で切ってあげるとき、お花の1本1本に、こんにちはって挨拶するの。元気にいっぱいお水を吸ってねって」
お母さんうさぎは黙ってニコニコうなづきながら、花瓶に水を入れてキッチンテーブルに置いて行きます。
ビアトリクスは花瓶の脇に水切りした花を置いてみて、花瓶の水の中に浸かってしまいそうな葉を丁寧に取り除いてから生けていきます。
「葉っぱを取り除くのはちょっと可哀想な気がしないでもないんだけれど、お水に浸かっちゃうとお水がね、腐りやすくなっちゃって、せっかく水切りしていっぱいお水を吸い上げられるようにしてあげても、そのお水が健康じゃなかったらそっちn方が可哀想だものね」
「こうしてきちんと生けてあげたら、これからは花瓶の水の量を確認して、いつも新鮮なお水であるように気を付けてあげないとね」
「うん。まずこの花瓶にはこれぐらいでいいわ。お母さん、どこか涼しいところへお願いね」
「はいはい。花瓶のお花もね、みんな呼吸してますからねエネルギー使っちゃいますからね、気温が高いと呼吸活動が激しくなっちゃうんでしょ。ビアトリクスがいつもメールで言ってましたね」
「そうなのよ。エアコンの風が直接あたるところもダメよね」
「毎日丁寧にお水を代えて、お世話してあげれば2週間くらいはもってくれるでしょう」
「暖かい季節にはすぐお水が悪くなっちゃうから、漂白剤を1滴、入れてあげるのもいいのよね」
と、玄関チャイムが連続して鳴り響きます。
「お父さんも帰って来たわね。花瓶を買って来るって言ってたのよ。おそらく抱えきれないぐらい持って来ているわ」
お母さんうさぎとビアトリクスは小走りで玄関に向かいます。
「やあ、ビアトリクス。卒業おめでとう。ひまわりを探したんだけど、なくってね。母さんと相談して花瓶にしたんだ。きれいな花瓶がたくさんあったんだよ。それとね……」
「もう、いったん荷物を置いてくださいな。ビアトリクスが生けた花を涼しい場所を探して飾るのを手伝ってくださいな」
「ああ、やっぱり学園からは花束をもらってきたんだね。うれしかったろうね。それでね……」
「お父さん。買って来てくれた新しい花瓶ね、さっそく丁寧に洗って漂白消毒して乾かしてくださいね。あしたから早速使わせていただくわ。ひまわりにも気を遣ってくれてありがとう」
3人は話しながらキッチンに入って来ました。
「わああ、たくさんの花だねえ。大きな花束だったんだろうねえ。そうかあ。それでね……」
「手早く生けてあげないといけませんからね、あなた、新しい花瓶を洗うのは洗面所でお願いしますよ」
「あ、ああ、そうだね。それでね……」
「お父さんの書斎にも、この小さな花瓶の花を飾るといいわよね」
「あのね、だからね、耳よりの話があるんだよ」
「いったいなんなんですか、早くおっしゃってくださいな」
「しゃべろうとするたびに止められちゃって遅くなっちゃったんだけどね。大学でね、花とか野菜とかに塗ると驚くほど長持ちする成分を特定したんだよ」
「ピカピカの10円玉とか、砂糖とか、漂白剤じゃなくってですか」
「そうそう、わさびなんだよ」
「ええ~!? なんですかそれ」
っていうことでですね、2023年5月に、名古屋大学、関西学院大学の研究チームが、イギリスの科学誌に、
「ワサビや大根に含まれる辛み成分が植物の葉にある気孔の開口を抑えてしおれるのを防ぐことを発見した」
っていう発表をしたんですね。
「ベンジルイソチオシアネート(BITC)」っていう成分の分子構造を一部アレンジした化合物で、既に実績をあげているんだそうです。
極わずかな量で、効果を発揮するそうで、切り花を長持ちさせるだけじゃなくって、野菜の鮮度を保ったまま輸送することが可能になるそうで、かなり画期的な発見になりそうなんですね。
実用的なんです。
まだ商用利用できる段階ではなさそうですけど、偶然発見したっていうんじゃなくって、切り花をしおれさせない、長持ちさせる。野菜の鮮度も長く保たせる物質が、何かあるはずだっていうスタンスで研究を始めていたそうで、3万種の化合物を次々に試していった結果、発見したっていうことです。
めっちゃアナログの研究態度。
生きものに対するアナログの成果、っていうことが言えそうですね。
「ベンジルイソチオシアネート(BITC)」は、ペルー原産のマカの有効成分の1つと考えられる辛み成分だそうです。
物語りじゃなくって、実際のお話。