<スピークイージーって英語の言い回しも 言い得て妙ってやつでしょかね>
アメリカの禁酒法時代に、すんごいたくさんあったらしい違法な酒場を“speak erasys”って呼んでいたそうです。
英語、さっぱりなのでイージーって単語のニュアンスがイマイチ分かっていないのですが「簡単にしゃべれる」というより「何でも言える」というニュアンスの場所を言ってるのかなあと思うんですが、どうなんでしょ。
非合法とされてしまった呑み屋さんが、ま、一応行政側を気遣ったスラングとして流通させたという単語みたいです。
いいえ、ウチは大丈夫です。酒なんて出してませんので、大声で言えますよ。スピークイージーです。って感じ?
要は、みんなが知ってる、公然の秘密みたいな言葉なんでしょうね。
で、このスピークイージーって言葉を直訳的に受け止めると“酒が沈むと言葉が浮かぶ”っていう慣用句のコアを言い当てている感じがしますですね。
いつごろ、何処の誰が言い始めた言葉なのかハッキリしないみたいです。
“酒が沈むと言葉が浮かぶ”
にしても、キレイに表現していますよね。洒脱っていうんでしょうか。一休さんとか、沢庵和尚とか、そういう人の言葉だとすると面白いなと、考えたりもするんですが、根拠も何もなくですね。
“酒が沈むと言葉が浮かぶ”って表現してイイような酔っ払いは確かに居ます。巷には少なくないかもですね。
余計なことまで口にしちゃうヤツ。
でもですね、たとえヘロヘロに酔っぱらったとしても、次の日起き上がれないぐらい呑みすぎたとしても、誰でもこうなるってわけじゃないですよね。
酔っ払い同士でも、酒呑み仲間のうちでも、どっちかっていうと“困ったチャン”で、嫌われ者のタイプなんじゃないでしょうか。
“酒が沈むと言葉が浮かぶ”とか、こんなにキレイに言われちゃうと、ちっとも悪くないヤツに思えますけどね。
だって、単に本当のことを言っちゃうってことでしょ。って受けとれちゃいますもんね。
酒を呑む。
たいていの場合、というか誰でも、口から酒を呑みます。
で、身体の中に酒がどんどん入って行って、腹の中に収めていた、大人として抑えておいた感情が酒に浮かんで、だんだん腸から食道を上って来て、要らんことを言葉にしてしまう。
って解釈。
ちと調べてみても、だいたいそんなような説明解釈が出てきます。
いや、イイんだよ。気にせずにどんどん言葉にして構わないんだよ。スピークイージー。
って感じでつながる。
ま、あれです。要らんこと、言葉で吐き出しちゃう人、別に違法ではありませんけれどね。
酒乱レベルではないんだけれどスピークイージーな酔っ払い。個人的に“原人”と呼んでおります。
北京原人の“原人”
原人はですね、土着の酔っ払いって意味です。
原人の現れる呑み屋さんが地元からそんなに離れていない場所であったとしても、会社関係の呑み会では社会人、なんだろうと思います。
地元から遠い呑み屋さんではオトナな呑み方。
しかしですね、変に曲がったアンテナを持っていて、地元の限られたエリア、自分のトポスだと捉えている店でだけ原人になる。
テリトリー意識なんでしょうかね。急にオレサマ的になっちゃいます。
面倒くさいヤツです。
こういう原人はですね、腹に入れた酒で押し上げられてきた言葉に、あんまり真実味がありません。確信的にそう思います。
なにせオレサマのエリアなもんで、無いことないことばっかりしゃべって、仕切りたがります。
たいてい、どうでもイイようなことですし、しゃべっている内容もよく分かりません。
ウルサイです。
そういう原人って居ませんか。行きつけの店に。迷惑ですよね。
幸い私の呑み仲間にはおりませんので、助かっておりますが、行きつけの店に来ちゃうことがあります、原人。
何人か居るんです。原人。
1人のときが多いですが、2人のときもありますね。2人の場合は、2人ともが原人なのではなくて、1人は聞き役、みたいな感じです。
カウンター席の他の客にも話かけてきますね。原人。1人でも、2人で来ているときでも。
どの店でも、誰も相手にしないんですけど、めげませんね。原人。
気付いていないのかもしれません。
聞き役は店のマスターだったり、おかみさんだったりになります。自然にね。
何人かいる原人たちは、みんな暴れたりするタイプではなくって、口だけなんです。
平和といえばヘイワなのではありますが、声がデカイという共通点があります。
ウルサイです。かなり迷惑。
女性客なんかは顔をしかめていたりします。
でも、とがめたりなんかすると、かえって面倒くさいことになってしまうのでみんな素知らぬ顔ですね。大人の対応です。
かなり出来上がったトコしか見ていませんので、最初からウルサイのかどうか、それは分かりませんし、確認しようとも思いませんが、おそらくやっぱり、地元の店に来てからなんでしょうね。
地元で見る原人たちはみんなイイ歳なんですけどね。見た目で分かるレベルのイイ歳。
私なんかは外様ですからね、地元の呑み屋さんでも我がトポスなんて感覚はありません。でもたいていのカウンター客が外様ですね。
原人仲間同士が出あうことは、まずないっていうのが不思議です。棲み分けが出来ているんでしょうかね。
「昔、オレが小学生のころ、この辺りは」
ってな話をすることが多いんですが、知らないっちゅうの。
外様には関係ありません。
店の人も外様ですね。だいたい。通いの人も居ますし。
で、たまに、地元のオジサマオバサマが居合わせることがあります。
「ほら、そこの角のさ、薬局のとこに川があったんだよ」
原人がマスターに向けて大声です。
マスター、聞いてません。
すると、たまたま居合わせた地元のオバサマ、
「あんた、なに言ってんの。この辺に川なんかあるわけないだろ」
「え?」
と、原人はちゃんと聞こえたはずなのに、
「オレはね、パドックで馬の目を見れば、分かっちゃうわけ。どれが来るか」
なんだそれ!
何のつながりもないです。
まあ、こんな原人相手に言い争いというかいざこざにならないのは、わりとすぐ居なくなっちゃうことをみんな知っているからなんですね。
生ビール1杯ぐらいで、さよならしてくれます。
でもあれです。いつまでもワアワアしゃべっていると、おかみさんが他の客を気にしてキレることがありますね。
「さっさと帰ってよ。もう来なくていいよ」
“デキン”ってやつですね。
原人はなんだかんだ言いながら出て行きますが、ひと月もしないうちに、ヘーゼンとした顔で、というか既に酔っぱらってはいますが、またやって来るんですね。
店側としても、一応売り上げにはなるし、他の客も原人についてクレームを付けたりしているわけでもありませんので、
「1杯だけだよ」
「ああ、オレはいつだって1杯だけだよ」
なるほど、それでいつも1杯だったわけね。
ずっとそんなのを繰り返しているのかもしれない原人。
ある意味、有名人。
“酒が沈むと言葉が浮かぶ”という慣用句が、こういう原人にそのまま当てはまらないことは理解しているんですが、知っている範囲で要らんこと言う酔っ払いって、原人たちだけです。
ずっと抑えていたことを吐き出してしまうというのではなく、無いことないことばっかり、大声でしゃべって、勝手な、迷惑な地元民としての、原人の役目を果たそうとする。
“江戸っ子は サツキの鯉の吹き流し 口先ばかりで はらわたなし”
ってことなんでしょうか。
ん~、原人は江戸っ子じゃないですけどね。
ま、原人みたいに無理して支離滅裂な要らんこと言う酔っ払いの方が、ホントに抑えていた言葉を仲間に対して吐き出すヤツよりヘーワでイイのかもしれません。
デキンって、話には聞いたことありましたが、今のとこへ来てから初めて現実に見ました。
デキンになっている人が出来んなはずの店に、ちょこちょこ来るんですよ。どこでもそうなんでしょうかね。
“酒が沈むと言葉が浮かぶ”という慣用句はとても冷静でキレイなイメージかも知れませんが、せいぜい原人タイプみたいな方がヘーワなんですよね。
本質的に要らんこと言って争いになったり、殴り合いになったりする人たちは、1960年代、1970年代のゴールデン街で絶滅してて、令和の酔っ払いはどこまでも“口先ばかりで はらわたなし”でイイです。真剣ぶらなくってイイです。
酒は“神さまからの贈り物”だと言います。酔っぱらって乱れるのは、その贈り物を乱用させる“悪魔の仕業”だとも言います。
“神さまからの贈り物”には熨斗が付いていて、そこには“忘憂”と書かれていたはずなんです。
憂いを忘れるための、命の水。
巧く発散させる方法を学んで、ウキウキと呑みましょう。
ま、イイ歳の原人には手遅れかもですが。