< ゼロからイチを作り出すための伝統的な書き方の手法 >
ブログ記事、小説、シナリオ、エッセイ。
散文を書く、書き続けるっていうことについて、いろいろ考えてみる13回目です。
小説を書き始めたんだけれども、途中で止まってしまった。続きをどうしたらいいのか分からない。
っていう状況になって仲間に相談すると、よく言われるのが、
「プロット、書いた?」
っていうアドバイスだったりします。
シナリオの場合であれば、
「箱書きは作ったの?」
ってなるんでしょうか。
まあ、パターンとはいえ有難いアドバイスではあります。
創作仲間っていうのはとっても大切な、得難い人間関係ですよねえ。
で、小説のプロットを用意していない場合は、そのプロットを書きさえすれば書き上げられなかった問題が、あっさり解決するかもしれません。
いやあ、プロットは書いたんだけれどなあ、っていう場合は困りますね。
プロットから逸脱しちゃったのが途中で止まってしまった原因なんでしょうか。
相談できる仲間がいるっていうことは、それだけで貴重なことだとは思うのですが、逆に、書けなくなったんだけど、どしたらイイ? なんて質問を受けるっていうこともあるかと思います。
親身になって、適切なアドバイスをしてあげられていますか?
書き始めたら書き終えるのは当たり前のこと、っていうのはよく聞きます。
そうすれば、小説が途中で止まる、シナリオが書き進めるうちに空中分解する、なんてことはあり得ない。
そりゃそうでしょねえ。そうではあるんですけど、そう出来ないから悩ましい。
自分自身は全くそういう、途中で止まってしまうような、そんな情けない経験をしていない、っていうんであれば、それは大変素晴らしいことです。
実際、プロの作家だと、そんな発言をしている人は少なくないですからね。書き始めたら、何が何でも書き終える。これは散文創作の基本姿勢なんでしょねえ、はい。
さて、プロットと箱書き。両方とも本編の下ごしらえ、前準備、っていう意味では同じものだって言えそうです。
小説にはプロット、シナリオには箱書きっていう具合に決まったスタイルものじゃないと思います。
プロットと箱書き、それぞれに、その人なりの様々なスタイルがあってイイでしょ。
最近では小説のプロットに箱書きを利用する方法が喧伝されたりしていますし、常に新しいメソッドが紹介されているっていうのが、創作の世界でもあります。
とにかく本編を完成させなければ作品としての判断ができないわけですから、途中までの出来に満足できない状態だとしても、最後まで書き上げることが大事。書き上げることが絶対条件。
ですので、どうしても完成させるための方法論として、あるいはその方法の概念として存在しているのがプロットであり、箱書きっていうことになります。
概念っていう言い方をしたのは、先述しましたが、プロットにしろ箱書きにしろ、その具体には実に多くのスタイルがあって、決して教科書的に定まったものじゃないからですね。
創作方法に定型、正解なんてないことは先人たちの書き方のユニークさを見ても明らかです。
あくまでも創作方法の一つのアイディア、その基となる考え方がプロットであり、箱書きだっていう手順だという認識が大切だと思います。
書き上げることが出来るならば、そうです、なくたってイイってことです。
自分なりの書き方が確立できさえすれば万々歳、ということでオッケーなんじゃないでしょうか。
プロの作家で、その作品ごとに創作方法が違う、っていうことを言っている人も少なくないことからも、創作方法がたった一つの正解を持っている、とかいうことはないんだと思います。。
同じ意味で、プロットなんか必要ないっていうのも、その人にとっての創作方法として正解なんですもんね。
その人が別の作品ではキッチリとプロットを組み立てました、っていうことでもオッケーですし、作品ごとに違うアプローチをするっていうことだって正解の方法なんですよね。
本編が完成さえすれば、創作経過がどんなものであれ、何をしたにしても、何をしなかったにしても、一切関係なしです。
完成さえしちゃえば、完成に至るまでの工程を正直に言わなくたってかまわないですし。
プロット、箱書き、っていうのは評価対象になる本編じゃありませんし、そもそも本来は他人の目に触れることのない代物なんですからね。
ある特定のメソッドに従って、プロットをきっちり組む。箱書きの段階で完成度を上げる。
そういった手法は、そうすること自体に悪いことは何もありませんが、やらなくちゃいけない、っていうことは決してないんだと思います。
作品のアイディアをまとめるための手法がプロットなんですもんね。
アタマの中で、それがやれるんであれば、わざわざ文字にする必要なんて、ってこと。
他の人がみたら、ただの雑多なメモが、崇高なレベルのプロットに仕上がっているっていうことだって、なきにしもあらず、でしょねえ。
そのアイディアが本編の読ませどころを意識しながら、最後まで出来ていれば、途中で執筆が止まってしまうことはありませんよ。
っていうのが書き方の教科書では決まり文句になっています。
でもですね、小説を書き始めるにあたって、プロットを用意することは常識なんだって思いこんじゃっている危険性っていうのもありそうです。
いつの間にか「世間の常識」に囚われてしまって、教科書通りの方法を盲信した結果、作品のユニーク性が無くなっちゃう危険性。
プロットなんて作らない方がイイよ、なんて言うつもりはさらさらありませんが「こうするものだ」っていう定型的な考え方に、いつのまにか縛られてしまっていないか、自分自身のことを客観的に捉え直してみる必要はあるかもしれません。
そこから、はみ出すために、壊すために書いておくのがプロットなんだ! っていう考え方もありますからね。
ストーリーの大まかな流れ。プロットを単純に言い換えればそういうこともできるかと思いますが、大抵は主人公の行動を追っていく記述となるんじゃないでしょうかね。主人公のいない小説はありませんからね。
ところが、いざ書き始めてみると、プロットに書いた行動から主人公が外れていってしまうということがあるんですよね。こんなことはしないだろうとか、こんなことは言わないなあとか。
プロットを書く段階で、主人公のプロフィールも考えているはずですし、プロットとは別に主人公の履歴書をきちんと書いている人もいます。マニュアル通りにね。
でも、そこから外れて、本編の中で勝手に動き始めた主人公。
作り上げた登場人物が実際に生命を持つ存在になるってことは、創作の理想とするところです。
プロットから外れた方が作品が成功している可能性が高い! って言えるのかもしれません。
主人公が独自に動き始めた場合、プロフィールを用意しているのであれば、書き替える必要があるかもです。主人公の具体的性格ができ上ったんですもんね。
プロットの流れとも違ってきていたら、プロットを書き換える必要も出てくるかもです。もっと面白くするために。
逸脱するためのベースがプロットだっていう位置付けをすることができます。
基本があるからこそ逸脱することができます。
イチが出来ていればジュウまで到達するのは我慢と努力でなんとかなりますが、創作の難しさ、その真髄はゼロからイチに到達することでしょう。
ゼロからイチ。これを担ってくれるのがプロットだって考えることも出来そうです。
小説でもシナリオでも、一回で完成稿になることは考えにくい。
草稿から第一稿。第二稿。さらには十回以上も繰り返す書き直し、リライトこそが「書き上げる」ことの正体であるとさえ言えますよね。
「もっと面白く、もっとスリリングに」っていう自分の書いている作品への意欲。
その意識の持ち方。
小説を書く人、シナリオを書く人、ブログ、エッセイを書く人、みんな愛情を注いで書いているはずです。
まず最初がプロットでの面白さだとすれば、本編を書き始めた段階で、プロットより面白いものを目指して書き進めるっていう方法がベストでしょねえ。
書いていくうちに、ちょっと違うかなって感じることがあっても、とにかく前に進めて完成させる。
いきなり完成稿を目指すんじゃなくって、今書いているのは草稿なんだっていう感覚も大事そうです。
とにかく書き上げたからこそ草稿といえるんです。草稿でさえもです。
書き上げていなければそれは何物でもないってことなんですね。
草稿が完成したら、さらにもっと面白くするために第一稿完成に向けてリライトです。
違和感のあった部分をどうやっったらもっと面白いシーンに変更出来るのか。
もっともっとの繰り返しです。
主人公が生命を持って、活動し始めたのならシメタものなんでしょうね。
そのまま登場人物の自由にさせるのもいいでしょうし、勝手なまねは許さん! っていう書き方もあるでしょう。
そういう場合は主人公と話し合って、プロットの流れ自体を変更していく方法がイイのかもしれません。
第一稿から聞こえてくる主人公の声を聞きながら第二稿完成へ向かう。
イチがあるから出来ることと、ゼロからイチを起ち上げる作業とは根本的な違いがあるように思います。
プロットの利用方法として、それをプロット自身を壊すために、プロット段階で考えた面白さを乗り越えるために創るっていうのは、納得のいく作品を完成させるためのかなり有効な方法ではないでしょうか。
ただし、ゼロからいきなりジュウまで行ってしまう方法っていうのも当然ながらあるんですよね。
方法って言いましたが、それは明示できるものじゃなくって、その当人の中にだけ存在する創作方法ってことになるんだと思います。
天才の方法。
スティーブン・キングはアンチ・プロット派の代表格みたいな作家ですが、こんなことを言っています。
「プロットは、優れた作家の最後の手段であり、凡庸な作家の最初のよりどころだ。プロット頼みの作品には作為的で、わざとらしい感じが必ず付きまとっている」
めっちゃ人気のある作家ですが、こういうのを聞くとムカツク~、とか感じる人もいるかもしれませんね。
ただ、これに類したことを言っている作家は実は少なくないんですよね。
ゼロからジュウにいきなり持っていく才能は案外と身近なものだったりするかもしれません。
つまり、書いてさえいれば、誰にでも訪れる可能性のある創作過程の恩恵、なのかもしれないっていう希望を抱いても許されるのかもです。
違いますかねえ。どうでしょ。
最後の手段である。この言葉からしますと、スティーブン・キング自身も書き上げた作品が思わしくないとき、プロットっていう形を利用してリライトしている、ということなんでしょうかね。
その作家が優れているのか、凡庸であるのかは、プロットを最初に書くかどうかとは直接的な関連は無いとは思いますが。
書いている途中のスティーブン・キングの頭の中は、こんな感じみたいです。
「ストーリーは自然に出来ていくというのが私の基本的な考えだ。作家がしなければならないのは、ストーリーに成長の場を与え、それを文字にすることなのである」
言葉通りに受け取れば、大きく前に戻って書き直すということをせずに完成まで持っていくっていう書き方なんだなって判断できます。
ストーリーを成長させる。なるほどと頷ける素晴らしい才能。さすがベストセラー連発のスティーブン・キングです。
でも、いかにスティーブン・キングであっても、何回かのリライトはしているんだろうなあ、と思いたいところではあります。
ストーリーの成長っていうのが、先を書き進めるという意味と、もっと面白く、もっとスリリングにと書き直すっていう意味もあるんだと解釈すればの話ですがね。
スティーブン・キングは決してプロットを否定しているわけじゃなくって、重きを置かない人なんだと思います。
まあ、天才の言っていることは往々にして理解するのが難しい、判然としないものではありますが。
ゼロからジュウへ一気に突っ走りたい人向けにスティーブン・キングの創作のコツ、と言える言葉を。
「ストーリーは以前から存在する知られざる世界の遺物である。作家は手持ちの道具箱のなかの道具を使って、その遺物をできるかぎり完全な姿で掘り出さなければならない」
これは日本の作家が言っていた内容とシンクロしているのではないでしょうか。
確か芥川龍之介だったと記憶しているのですが、優れた仏師は単に木に仏を刻んでいくのではなく、仏の入っている木を見つけてきて、仏の姿以外の部分を削るのだ。っていう言葉です。
全く新しいストーリーなどというものは存在しない。あらゆるストーリーは既に語られている。現代の我々にできることは、先人の仕事の模倣に過ぎない。
こんなことを言っている人もいましたよね。誰の言葉だったでしょうか。
誰が言ったのかが重要なんじゃなくって、その言っている内容を自分の創作にどう活かしていくかです。と、誰だったか調べ直さない言い訳をしてオワリとさせていただきます。
創作のアウトプットはプロットじゃなくって、本編です。
暗礁に乗り上げてしまったら、方法論にこだわるんじゃなくって、とにかくもう一度書き直しましょう。とにかく書き上げましょう。
完成していない原稿は作品には成り得ていないんですから。
ザッツイット。
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