< ひとつ所に懸ける命だから一所懸命っていう四字熟語 一生懸命って四字熟語になってない? >
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散文を書く、書き続けるっていうことについて、いろいろ考えてみる4回目です。
あしたのためのその1。書くべし、書くべし、ってことで、言葉、単語に対するこだわりについて考えてみます。
グローバルだとか言われ始めるずっと前から、日本には外来語が溢れていました。
カタカナ語、って表現する人もいますよね。
日本語には漢字、ひらがな、カタカナがあって、個々人によって何となく使い分けている、っていうのが実情じゃないでしょうか。
外来語に分類されている言葉は、たいていの場合カタカナで表記されていますね。コンピュータが生活のなかに浸透してきてから、このカタカナ語が一気に増殖した感じがします。
よく耳にはするんだけれど、それってどういう意味? っていう言葉。けっこうありますよね。
スマホで調べた時は分かったような気になっているんだけど、少し経つと、あれ? なんだっけ? となってしまう言葉。経験している人は多いと思います。
あるいはまた、フィナンシャルってファイナンシャルと違うの? であるとか、ローヤルとロイヤルってどっちが正しいの? といった具合に、外国語をカタカナにしたがために生じる混乱っていうのもありますよねえ。
ユビキタスって最近聞かなくなったけど、あれってどこにいっちゃったの? そもそも何だったんだろう? みたいな感じの、全く新しい概念に対する疑問っていうのもあります。
経済用語にもカタカナ語が多いですよね。
理解できません! っていう概念もあったりしますけどね。
コンテンツっていう言葉。よく聞くと思いますけど、その解釈が人によってかなりの隔たりがあって、コンテンツこんてんつって言って会話自体は進んでいくものの、内容的な合意がなかなか得られない。
開発プロジェクトだとかで、そういう経験をした人も少なくないと思います。
カタカナ語を通常に使っている業界でも、リテラシーが共有されていないんですよね。
カタカナ語は特に、個人個人の思い入れがあったり、理解の仕方が違っていたりして混乱の原因になりやすいのが現状だと思います。
何らかの形式で散文を書いている人、あるいは書こうと思っている人は、意識しておくべきことなんじゃないでしょうか。
自分の使っている言葉が、相手に対して、どう伝わるのかを考えて書く。
時の経過とともにその意味が変容していってしまう、ということ、無きにしも非ずですし、簡単じゃないですけどね。
言葉。真剣に向き合うと、なかなか難しいものです。
言うまでもなく、物書きにとってボキャブラリーはとっても大事。
日常的に使われている言葉の難しさとしてさらに言えば、何が正しいのか、正確には分からないカタカナ語というものもあるように思います。
ネイティブな発音を表そうとしているんでしょうけど、うまく解決できているとは言えない感じ。
例えば「マルゲリータ」っていう言葉。
聞いたこと、ありますよね。たいていのピザ屋さんのメニューにあります。
ナポリ地方のピザで、トマトソースにモッツァレラ、バジルを乗せたあれです。美味しいピザ、マルゲリータ。
さて「マルガリータ」という言葉はどうでしょうか。こちらもまた聞いたことがあると思います。
20世紀半ばにアメリカで考案された、テキーラベースのカクテル。
グラスのふちに、切ったレモン片を滑らせてから、皿に敷いた塩にかぶせてグラスに花を咲かせ、よく振ったシェイカーからなめらかに注いで出来上がり。
カクテルブームの時にはスタンダードに数えられた一品でしたね。
マルゲリータとマルガリータ。よく似た言葉です。「ゲ」と「ガ」の違いしかない。
でも、モノは全く違う。
この二つ、英語のマーガレット。そのイタリア語読みとスペイン語読みなんだそうです。
モノの名前の由来については世界各国、色々なエピソードがあります。そのエピソード自体はここでは割愛しておきますが、単語としてはどうやら同じものらしいっていう事実。
カタカナ語になって、全然違うものになって伝わっているって、ややこしいですね。
ま、いろいろあっても、現在の日本の中では「マルゲリータ」はピザ。「マルガリータ」はカクテルとして通用しているのが一般的だと言えると思います。
散文を書いて、読む人に何事かを伝えるってことを志す者にとって、食べ物やドリンクが登場してくるシーンを書くことは、ごく自然にある事だと思います。
その中でマルゲリータやマルガリータを扱う場合、どのように対処したらイイんでしょう。
正解と言えるものはないでしょうし、言葉のウンチクを傾ける内容にするテもなくはないでしょうけれど、どうでしょうか。普通は単なる登場アイテムでしょうから、説明なんかしないだろうと思います。
どうしてもマルゲリータを食べる必然性がある話。何がなんでもマルガリータを呑まなければ成立しない話。
そういうことは稀でしょうし、おそらく何気なく使っている場合が多いと思います。
どちらか一方をシーンの中に書く場合、似たような言葉があることなど特に意識しないですもんね。
偶然にマルガリータを食べながらマルゲリータを飲む、といったシーンを書いたりすると、おや? と気が付く可能性はありますが、ほとんどの場合、特に調べたりせずに、自分の経験則で使っているんだろうって思います。
それが普通ですよね。
区別なしに使っている人もいますけどね。
言葉に関わっていこうとする人の場合、この辺にもう少しコダワリがあってしかるべき、でしょねえって思うわけです。
言葉を使うのに恐れを抱く必要があるっていうんじゃなくって、自分が使う言葉に対する自覚を持つ、っていうニュアンスが大切かと。
誰か指摘してくれる人が居れば助かりますが、周りの人たちもまた多くの場合、言葉に対する自覚って、けっこう薄いっていうのをしょっちゅう感じます。
物を書かない人は、全然かまわないことかもしれませんけどね。
繰り返しになりますが、散文を書く人の場合についての話であります。
使う言葉、単語に対する気遣い、コダワリが、その人の文体を決めてしまうものでもあると思います。
特に間違いっていうんじゃなくって、使い方に対する自分なりのコダワリ。
普通に記せばこうだけれど、自分はこういう使い方をするっていう言葉。周りからの評判も良かったり悪かったり、いろいろあるかもしれませんが、言葉に対するコダワリは、自然にその人の文体になっていくんだろうって思います。
ところで、「熟字訓」っていう言葉を聞いたことがあるでしょうか。
中学、高校あたりまで現代国語が得意だったっていう人でも、知っている人は少ないかもしれません。
漢字の熟字に、単字単位ではなく、ひとまとまりの熟字そのものに対して、訓読を与えたもの、が熟字訓です。
「今日」これは音読みですと「こんにち」ですが、熟字訓として「きょう」っていう読みが与えられていますね。
我々が日常生活のなかで「今日」っていう記述に出会った場合、普通には「きょう」って読むことを優先しているんじゃないでしょうか。
熟字訓という言葉を知らなくとも、普通に熟字訓を使っているわけです。
そして、言わずと知れているように「きょう」と「こんにち」では意味が違いますよね。
「きょう」って読めば、本日を表して、もう夜の十二時を回ったよ、なんて突っ込まれることがあるような、カレンダーに従った日付に限定されます。
もう一方の「こんにち」は過去や未来に対しての最近を意味していて、本日を含んだ長い時間をさす言葉として、年単位や時代という長さを背景にした使い方をするんですよね。
文脈を読めばどっちで使っているのか分かるんだから、気を遣うほどのことじゃないでしょう、っていう意見もあると思います。
それはその通りですけどね。誰でもそうして読んでいるのだと思います。ですが、ここが物書きのコダワリをお薦めしたいところなんであります。
「きょう」って読んで先に進んでいったら、ああ、さっきの「今日」は「こんにち」だったか、っていう理解をするわけですが、テーマが大局的なんだから読む前に分かれよ、っていうのが書き手の態度だったとしたらサービス精神が足りないって言われちゃいそうです。
もちろん音楽や映画との決定的な媒体受容形態の違いとして、文章は随時即時に好きな分量だけ、戻ったり進んだり出来るっていう特徴があります。
それに頭の中で追いかけて理解するのは一瞬なんだし、段落を前に戻って読みなおす必要はないでしょう、っていうのも尤もなことではあります。
でもですね、だからこそ、単語の連続を理解しながら読み進めるものであるからこそ、スムースな理解の連続を妨げる要素を排除しておくサービス精神が重要なんじゃないかって思うんですね。
文体は、先へ先へとスムースに読み進められることを前提として、次々に興味の対象を提供していく工夫を、書く側は意識した方がイイんじゃない? って思います。
リーダブル、読みやすさ、ってことです。
熟字訓にはほかにもいろいろあります。
昨日「きのう さくじつ」
明後日「あさって みょうごにち」
だとか意味の変わらないものもありますし、
下手「へた しもて」だとかのように全く意味の違ってしまうものもあります。
最近のメディアでは歌舞伎の「女形」を「おんながた」って言いますし、歌舞伎役者さんでそう表現する方もいらっしゃいます。
ですが、熟字訓では「おやま」って読みますし、ひと頃までは「おやま」の方が一般的でした。
言葉は変化していくものですし、セリフを書く場合「ら抜き言葉」の方がスムースな形勢になってきているようにも感じますしね。
「一所懸命」が使われることは稀になってきて「一生懸命」が普通になっています。
特にそこに関して意見があるというのではありません。って言いながら一生懸命も四字熟語として成り立っているという意見には納得がいかないんですが、世の中は変化していくものですからねえ。
「細い 細かい」の区別は送り仮名を認識できていれば問題なし。
っていうテストでマルをもらえればイイんじゃない? っていう態度じゃなくって、細かいは「か」が送り仮名としてあるから「こまかい」ってひらがなにする必要はないかな。
細い、の場合は「こまかい」って読み間違えられないように「ほそい」って、ひらがなにしようかな、っていう配慮。のような自分で書く、他人に伝えるための文章に対するこだわり。が大事。な感じがするのでありますよ。
小説やシナリオ、エッセイ、ブログ記事を書く際に限ったことじゃなくって、どんな散文でも、つまり誰かに読んでもらうことを前提とした文章全てについてですね。
海外の人が日本語を勉強して、日本語は難しい、っていうレベルから、日本人が日本語を書くにあたって、何かしら、どこかしら、自分なりのコダワリポイントを見つける。これって案外、自分を信じられるきっかけを作ってくれたりするようにも思います。
どういう単語表記を選択するかは、もちろんその人個人の自由ですし、全くその個人の責任範疇であることは間違いありません。
ただ、使っている日本語に対して、書き手として、その単語の全てに注意を払って、コダワリを持っている方が、何となく物書きっぽい雰囲気を味わえる可能性も出てくるかも、ってな感じがしませんか。
閑話休題。
熟字訓って、面白いと思いませんか。
長々語ってきましたが、その歴史だとかは知りません。ですが、漢字という文化を中国から取り入れて、ひらがなを作り、カタカナを作り、日本独自の読み方を与えていく。
短い時間で出来上がったものではなくって、長い歴史の中で育まれてきた文化なんですよね。
熟字訓。その存在自体を意識できるかどうか、っていうこと自体、散文を書く上でけっこう重要だと思います。
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