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【東京「町」歩き】23区 板橋区編 板橋区の「町」はチョウかマチか

< 東京都23区 北部に位置する板橋区には 57の町名があるのであります >

「【「町」の読み方】あなたが住んでいるのはチョウですか? それともマチですか?」で、日本全国の「町」の読み方について、ちと調べてみたわけですが、全体として「町」の読みは「チョウ」の方が多かったのでした。でもこの結果は市部や区部の中の「町」は対象外としてのデータでしたので、差し当たって、東京23区の区部の中の「町」の読みについて調べてみようと思い立ったわけです。


市町村合併などによって失われいく地名も少なくない現状ですが、「チョウ」と読むか「マチ」と読むかという以外にも、「町」という字の付かない「町」というのもありますし、知らない町名、不思議な町名というのも少なくないだろうと思います。


東京都23区、第3回目は「板橋区」です。

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板橋区の面積は32.22平方キロメートル。23区の中で9番目の大きさ。人口が58万2千人足らず。
区の木はケヤキ。区の花はニリンソウ。おりょ!? なかなかオサレな区の花じゃないですか。。大きなお世話ですけれどね。


令和現在の板橋区は、区外へ通勤している人の数の方が多くて、昼間の人口の方が夜より少ない区です。


板橋区役所から直線距離で100mほども東に行きますと「旧中山道」が南北に通っています。この辺りは中山道板橋宿中宿だった地域で、中山道を北に500mほども進みますと、板橋区を東西に流れている石神井川にぶつかります。


そして、そこに架かっている橋が「板橋」


区名の由来になった橋だそうです。もちろん今は鉄筋コンクリート。立派な橋。板じゃないです。


昔は木の橋が珍しかったので地名になった、という説明もあったりするんですが、どうなんでしょ?


昔から、土橋、金橋っていうのもありますけれど、昔の橋って、たいてい木でしょ。


それに江戸時代は、徳川幕府の戦略として橋は架けないっていうのが原則だったらしいです、よね。


メインの街道だった中山道ですからね、通行する人は少なくなかったでしょう。石神井川が水量の多くない流れだったのかどうか、そこまでは分かりませんが、渡し場が残っていないところをみると、歩いて渡るのが普通だったのかもしれません。


ただ、みんながみんな、裾まくり、尻端折りで流れを渡れたわけでもないでしょう。履物を脱いで裸足になるとか、ジョーダンじゃありませんッ! ってオカタもきっと居て、そんな人のためには、臨時に板を何枚か渡して歩いてもらうっていうのが定番だったりしたのかもしれませんよね。


そもそも「木橋」じゃなくって「板橋」ですからね。


板を渡して押さえて、渡らせる。そういう商売。という妄想。
確かといえる記録が残っていないのは、東京って案外多かったりします。


それって、暴論めきますが、薩長政権のせいだと思います。なんでもかんでも徳川憎しで、江戸文化を否定、抹消しちゃった動きってけっこうあるように思います。


かの、永井荷風センセもそんなことについて怒っていたりしますしね。


「旧中山道」を「1日中やまみち」って読んだアナウンサーがいましたけれど、「きゅうなかせんどう」です。
中山道は江戸五街道の1つですからね、板橋宿は江戸四宿にも数えられていますし、かなり栄えた場所だったんだろうと思いますね。


板橋宿へ泊った客が「雨はあがったけど、どうだい、渡れそうかい?」
そうすると渡し屋が「も少し刻が経ちゃア渡れますぜ。きょうは5枚ぐれえで渡れらあね」
「ん~。おひいさんはな、足が、あれなもんだから、岸から岸までちゃんと頼むよ」
ってなやりとりが。。。


落語「四宿の屁」っていうのがありまして、品川、新宿、千住と並んで板橋の遊郭も出てきます。
江戸四宿っていうのは、江戸から一番近い宿場町4つ。板橋ばかりじゃなくって品川も新宿も、江戸じゃないってことです。江戸の外。


「四宿の屁」は罪のない屁の笑い噺です。ご興味の方はユーチューブでどうぞ。


板橋区の名前を日本中に広めたのは、屁の噺じゃなくって「高島平の高層団地」ですね。


聞いたことありますよね、高島平って。1972年に完成した「マンモス団地」


1万以上の戸数で当時は「東洋一」と喧伝されていました。でも、もう半世紀が経過しているんですね。


自殺の名所、などというありがたくない言われ方をしたりすることもありましたが、日本の住宅事情に一石を投じた役割は小さくない団地です。


高島平という名前は江戸末期の1841年、天保12年に、幕府方の砲術家高島秋帆(たかしま しゅうはん)」が、洋式砲術の公開演習を実施したという故事から付けられたそうです。


ところが、翌年の1842年、長崎での勤務状況を糾弾されて、投獄、お家断絶となってしまったそうです。
出る杭は、ってやつんんでしょうね。昔っからお役人同士の足の引っ張り合い。


浦賀に黒船がやってきたのは、1853年、1854年のことですから、その十年以上前に幕府は大砲という兵器について準部をしていたってことですね。


1853年からお台場に海上砲台を築いた頃には赦免されて、日本の防衛に努めた人らしいです。
高島秋帆という人は、江戸末期の混乱の犠牲者といえるのかもしれないですね。


砲術の演習をしていたころ、ここはもちろん高島平という地名じゃないですね。
それまではずっと「徳丸ヶ原」という農地だったそうです。


今現在では、高島平の南側に「徳丸」という地名を残しています。


「徳丸」っていうのも、かなりユニークな名前ですが、名前の由来はいくつかの説があるようです。


疫病退散説をご紹介。


この地域に疫病がまん延して、多くの人死にが出て、里人たちが途方に暮れていたところ、徳磨(とくまろ)という男の夢枕に神様が現れて、
「原の古い梅の大木に、疫病退散の祈願をせよ」
と告げました。
徳磨は夢のお告げの通りに、梅の古木に祈願したところ、夢枕に立った神様が「アマビエ様」だったのかどうか判りませんが、疫病は退散し、臥せっていた人たちも無事に回復した。
このこと以来、土地の原を徳丸ヶ原と呼ぶようになって、やがて徳丸という名前になったということです。


高島平も広い場所ですが、徳丸という土地の一部だったということですね。


住人の高齢化が進んで、高島平も昭和の華やかさを失いつつありますが、大規模な再開発対象になると、何か新しいビジョンを提供してくれるかもしれません。そういう宿命を持った土地なのかもって気もします。


コロナ退散方法を告げてくれる神さまって、もう日本には居ないんでしょうかねえ。


板橋区の「町」の読みのデータです。


町名の数は57。「マチ 1」「チョウ 27」「町が付かない 29」でした。


「マチ 1」
赤塚新町」区の中で1つだけのマチ。こうなると行ってみようかな、とか思っちゃいます。


「チョウ 27」
「本町」「仲町」「大谷口上町」「大谷口北町」「大山金井町」「大山町」「大山西町」「大山東町」「熊野町」「幸町」「栄町」「中丸町」「南町」「弥生町」「氷川町」「東山町」「東新町」「富士見町」「双葉町」「大和町」「前野町」「泉町」「大原町」「宮本町」「清水町」「蓮沼町」「相生町


「町が付かない 29」
「板橋」「稲荷台」「加賀」「仲宿」「大谷口」「小茂根」「中板橋」「向原」「常盤台」「南常盤台」「桜川」「上板橋」「志村」「小豆沢」「中台」「若木」「西台」「蓮根」「坂下」「舟渡」「東坂下」「赤塚」「成増」「大門」「四葉」「徳丸」「高島平」「新河岸」「三園」


三原じゅん子センセ、平田弘史稲垣吾郎辻希美峯岸みなみ中山美穂石橋貴明グッチ裕三大江千里、有名人いっぱいの板橋区です。

 

< チョウかマチか >

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