ウキウキ呑もう! ニコニコ食べよう!

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ーー 居酒屋トークの ネタブログ ーー

【7000年前の道を発見】今のところ分かるような分からないような そんな情報

< だってね そもそもね 発見されたのって深さ4メートルから5メートルの「海底」だってんですよ >

底まで見える透明度じゃない、ってことなんでしょうけれどもねえ。


1996年にエジプトのアレクサンドリア沖、深さ5メートルから6メートルの「海底」から、クレオパトラの宮殿跡が発見されたっていうニュースの時もそうだったんですけど、「海底」っていうほどの深さを感じないメーター数ですよね。


普通に素潜り出来そうですよ。


アレクサンドリアっていったら大都市なんでしょ。人の目もけっこうあるだろうに、って思いますけど、そんな簡単なもんじゃないんだよ、っていう事情があるんでしょうねえ。

 

 

 


今回、7000年前の道が発見されたのは、クロアチアのコルチュラ島の湾内だそうです。


コルチュラ島。知りませんねえ。
海外旅行に慣れている人なんかですと、ああ、あそこね、ってことなのかもしれませんけれど、どの辺なのか、さっぱりです。


クロアチアってバルカン半島だよね。ぐらいの感覚しかありません。


分裂する前のユーゴスラビアだった頃には「ヨーロッパの火薬庫」なんて表現されることもあったバルカン半島ですが、海沿いの街並みの美しさで知られた観光地でもあります。


まったく海外旅行とか行ってませんし、行く予定もないんですけど「アドリア海の真珠」って言われている「ドゥブロヴニク」っていう名前は知っています。名前だけですけどね。


地図を見ますと、クロアチアっていう国は南に細長く海沿いの面積を占めていて、その南の端っこ、モンテネグロに近いところにあるのが「ドゥブロヴニク」なんですが、そこから海岸線に沿って北西方向に行くと、いくつもの島嶼地域になってますね。


その島の中の1つがコルチェラ島。東西方向に細長い形をしています。


クロアチアの考古学者が衛星画像を見ていて人工物らしきものに気付いたのが2021年。


調査を進めた結果がネットニュースになったのが2023年の5月です。


深くはないっていっても、やっぱり海の中ですからね。調査には並々ならぬ苦心があるんでしょうね。


クロアチアの海底から約7000年前に人が歩いていた先史時代の道が発見される」


っていうようなタイトルの記事がネットの中でいくつか見つかります。


コルチェラ島の沖合に「人工島」があって、そことつなぐための、幅4メートルほどの「道」が発見されたっていう内容なんですけど、なんかスッキリしないんです。


クロアチアで発表されたニュースを単純に翻訳しただけのものなのかもですけど、素人にも分かりやすいっていう、親切な書き方がなされていないように思うんですよねえ。


だって、原文がそうなんだもんっていうことっも充分にあり得ますけど、翻訳記事を載せるに際してなにも疑問を持たないのか!? っていう気がしちゃってます。


「沖合に作られた人工島とコルチェラ島をつなぐ道」


っていうんですけど、焦点は明らかに「道」になってます。「道」の発見っていうニュースですからね、当たりまえです。


でも、道の先にある「人工島」っていうの、そっちの方も気になりませんかね。


7000年前って、新石器時代ですよ。
7000年前の海岸線は今と同じじゃないんでしょうけれど、埋め立て、干拓をして島を造った。


そっちは、なんだか当たり前みたいな記事上の扱いなんですよね。


衛星画像で発見されたのって、こっちの人工島の方みたいなんですけどね。


古代の集落跡、火打ち石だとが見つかっていて、そこのエリアは人工島だったと見られている。ってそれだけの記事内容。


考古学に詳しくなんてないんですけどね、なんで人工物だって分かるの? って思いません?
そういうとこまで解説していただけるとありがたいんでありますよ。


コルチェラ島の沖合に、人工の島を造るって、なんかとんでもない作業のような気がするですけどね。


7000年前の新石器時代の人たちが、埋め立て、干拓っていう苦労をして、何の目的で島を造ったんでしょう。


見つかった集落跡っていうのは、住むための集落なんでしょうか。それとも何か特別な道具を作るための、宗教的な萌芽を感じさせるような役割を担った場所ってことなんでしょうか。

 

 

 


ネットの記事では、その「人工島」の近くから、幅4メートルの道を発見したっていうことがメインですから、人工島発見の記事は2021年に詳しく載せましたよ、っと可能性もありますけどね。


石板を積み重ねて造られているっていう、先史時代の道なんですけど、今回の記事からだと、その石板の放射性炭素年代測定の結果から、7000年前のものだって言っているように読み取れるんです。


ここも舌足らずって言いますか、道に使われた石板の何を測定したんでしょうかね。


石そのものが7000年前に出来たってこと?
んなこあたあ、ないでしょねえ。


石、岩を削って石板にする新石器時代の技術から、何か年代測定に関与する石以外の何物かがあって、それを測定したってこと?


今は沈んじゃってる「道」と「人工島」ってことは、「道」を造った時点で「人工島」が島だったのかどうか確定できないってことにはならないんでしょうか。


「人工島」ですって判断しているってことは、その場所が潟のようなもので、そこに行きつくために石板を積み重ねたような頑丈な「道」が必要な特別な場所だったんでしょうかね。


7000年も前の「道」が発見されたっていうのは、充分にビッグニュースですし、石器時代の終わりの始まりだっていう新石器時代ですから、技術的にもだいぶ発展して来ていたんだろうことは想像できますけど、それでも、その石板を何で作るかっていえば、石器、ですよね。


めっちゃ時間かかりますよ。たぶん。


文字を持たなかっただろうって判断されている先史時代です。


7000年前にはコルチェラ島なんて名前は付いていなかったでしょうけれど、自分たちの島の外に、新たな集落を必要としたのはなんでなんでしょう。


そういうのは、まだまだこれから調査していくんですよ、ってことなんだろうとは思うんですけど、発表された記事だけでは、新石器時代の、人類が定住生活に移行していく過程で、大きな労力を費やして、何を成し遂げたのか。そっちの方が、7000年前の道が見つかったよ、っていうことのホントの意味だと思うんですけど、果たしてそういう方向に興味を持って取材してくれるんでしょうか。


「世界は神が造ったが、オランダはオランダ人が造った」


って言われるほどのオランダの干拓事業ですが、それは石器時代とかじゃなくって、12世紀、13世紀の偉業です。

 

 

7000年前っていうのと、人工島っていうのがホントにほんとだとすれば、いったいどんな技術で新石器時代の人類が成し遂げたのか。


何のための人工島と立派な道だったのか。
石板の道は、なぜ4メートルもの幅を必要としたのか。


さらには、海に沈んでしまったとはいえ、膨大な労力をかけた人工島と道が、なぜ、どういう経緯で忘れられていったのか。


かなり興味深い発見だとは思うんですけど、その事実を我々に伝えてくれるジャーナリストが、なんにも感じてなさそうな書きっぷり、訳しっぷりなように感じられたんですよねえ。


取材する時点で、なんで? っていう疑問を持たないジャーナリストって、、、ダメじゃんね。


東京っていう街も、17世紀、徳川家康さんが神田山を切り崩して遠浅の海を埋め立てて以来、今でも海岸線をどんどん太平洋側に押し広げ続けていますけれど、地球全体を見れば温暖化による海面上昇によって失わて行く陸地、島が在るっていう問題に、どう対処するべきなのかについて、7000年前の人工島が何か教えてくれる可能性っていうの、ないんでしょうかね。

 

 

 


ジャーナリストさんたち。しっかり問題意識をもった取材、報道を、これからもよろしくお願いいたします。


あなた方はChatGPTとかに負けちゃいかんのですよ。ホントに。

 

【押しつ押されつ酉の市】賑わいは戻るのか ほぼ大人のオシクラまんじゅうでしたけどね

< 酉の市の賑わいは なんでそんなに熱いのか 商売をしている人たちは真剣なんでありますよ >

え~、まいどのお運び、ありがたく存じます。
きょうもひとつ、最後までよろしくお付き合いのほど、お願い申し上げておきますが。


まあ、なんですな。時節柄と申しますかね、ようやく気兼ねなく歩き回れるようになりますと、そこらをね、ホントぐるぐる回っちゃうなんてやつも出てまいりましてね、何にも用はないんだけれども、とりあえずご近所をひと回りなんてんでね、歩いて、自転車で、ちょっとシャレたふりするやつなんかは車でもってね、うろうろするのも増えてきておりますよ。


特に東京は多いんです。ぐるぐるしてんの。


なにせほら、首都高速ってのが環状でございましょ。ぐるっと回ってますからね。まごまごしてますと、いつまでも降りられないってね、こういうことになっておりますよ。


カーナビがいくら進化したってね、降りられないやつぁ、降りられないんです。ホントですよ。


はい、今回はいつもと趣向を変えましてね、そんなにバカバカしくもない噺で、はい、ご機嫌をうかがっております。


なにも首都高がぐるっと回ってるからバカバカしくない噺ってことじゃござんせんで、東京はいろいろとぐるぐるしてるんでございましてね。江戸時代からなんだそうでございますよ。

 

 

 


環状線ってのがたくさんあんですよ、東京の中ね。


まず天皇さんのおいでになる皇居の回り、ここに環状1号線ってのがございます。
これがだいたいホントにぐるっとしてんですね。


内堀通りと日比谷通りで成り立っております。内堀通りってぐらいですからね、お城の守りだったとこです。江戸城の周りをグルっとしているわけですから、そこに道路を作りゃあね、こりゃ自然にぐるっとしちゃうわけです。


神奈川県のね、バイク仲間なんですが、初めて都内へツーリングに来まして、内堀通りから新宿へ出ようってんで、標識見ながらぐるっと回ったんだけれどもどこから曲がればイイんだかさっぱり分からない。


車線が細かく分かれてますからね、目的のところで外側へ車線変更していないと曲がれる車線に入れません。
皇居側には曲がれませんからね。けっこうキビシイ通りなんです。


内側を走っていたら、いつまでたっても内側車線をぐるぐる回るだけになっちゃいます。


そいつね、なにせあたしの友だちですから、アンポンタンなんです。


困ったな、弱ったなって思いながら皇居の周りを3周目だったか4周目。突然、サイレン鳴らして赤色灯回した白バイ2台に並走されて、停車させられちゃった。


内堀通り環状1号線ね、桜田門、警視庁の建物に面した通りですからね。目の前を同じバイクが何回も回ってたら、コラアッ、なんだお前は! ってことにね、なっちゃいます。当然です。逮捕です。


まあね、事情を説明したら、ついて来いってんでね、もう1周して、ここから行けって合図してくれて、無事に新宿通りへ抜けられたんだそうですけどね。


もう2度と東京の環状1号線は走らないって言って泣いておりましたですよ。
アンポンタンってのはいつの時代でも可哀想なんでございます。


白バイのおまわりさん、ありがとうございました。


で、次が環状2号線ですね。
これね、環状になってないです。ぐるっとしてないんだけれども、環状2号線ってんですよ。


外堀通りでぐるっとしかけてんですけど、途中から環2通りってやつで有明の方へ突き抜けちゃってる。


ね、外堀通りってんですから、ぐるっとしてんですよホントはね。
だけどまあ、そんなにぐるぐる回られちゃったら、やかましくってしょうがないから止めておくれ、とか言われちゃったのかもしれませんね。え? どうだか知りませんけどね。


次が環状3号線ね。
これまたぐるっとしてませんよ。


でもまあ外苑東通り、言問い通り、三つ目通りってんでね、ぐるっとしそうな気配はあるんだけれども、つながってないんです。


三つ目通りがあるから3号線ってわけじゃござんせんで、江戸城、皇居を中心にして回ってる通りの3つ目だから3号線です。
どうも、ややこしいね。


次の環状4号線がね、環状って言ったって、かなり無理矢理なんです。ぐるっとしてませんしね。


外苑西通り不忍通り道灌山通り明治通り丸八通りでなんとなくぐるっとしちゃいますけどね、それぞれ通りの幅も違いますし、くっ付いちゃいませんよ。


環状5号線ってのがほぼ明治通りなんですよ。ですけどね、環状4号線の中にも入ってましたでしょ、明治通り


だから環状4号線と環状5号線ってのは一部ガッチャンコになってるんですね。
なにも無理して環状ってのを作り出さなくたってよさそうなもんですけどねえ。


そんでね、次の環状6号線からは、普通に「カンロク」って呼んでんですよ。環状6号線だからカンロクね。


山手通りって呼んでますけどね。全然環状じゃないし、なるような気配も感じませんけどね。


馴染みってことなのかもしれませんけど、このカンロクってのはですね、けっこう雰囲気の好きな通りでした。
みなさんにもございましょ。なんとなく雰囲気の好きな通りってのが。


でもね、地下に首都高が走るようになっちゃったあたりから、どうもね、好きじゃなくなっちゃいました。ま、個人的なことですけどね。


その外側が環状7号線で、みんな「カンナナ」って呼んでます。


ラーメンブームの時、カンナナ沿いにたくさんの有名店が出来て、迷惑駐車で取り締まり、なんてことも頻繁でしたねえ。バブルの頃ね。


これ、好い道なんでございますよ。東京湾があるんで環状にはなってませんけれどね、だいたいね、ぐるっと東京を回ってます。首都高が大渋滞の時はカンナナの方が速かったりします。立体交差の多い東京都のメインの道路って言えるんじゃないですか。そう思いますねえ。


カンナナの外側にあるのが環状8号線でしてね「カンパチ」って言います。


カンパチは東京の西側をカバーしてますけど、東っ側はカンナナと合流したような形になっていますねえ。
ちっとも環状じゃないんですよ。


なんでこの状態で環状って言うのかわかりませんよ。今から環状ってことになりそうもありませんしね。
予定なんてのも無さそうに思いますけどねえ。


カンパチの外側には外環状って言いましてね、高速道路、自動車専用道ってんですか、それがカンナナに近い形で環状っぽく繋がり始めていますね。


でもまあ、環状にならなくたってね、イイんですよ。
だってほら、これまでそれでやってきてるんですから。

 

 

 


あたしね、バイクだとか車だとかで、都内の道路はムダにいろいろ走って来ましたねえ。用なんかなくたってね、走ってた世代です。そういう世代があんです。あったんですよ。


内堀通りでぐるぐるなんかしてないですよ。とにかくあちこち走りました。
仕事でもプライベートでもね。


カンロクを南側から北へ向かって走っていきますね、こうね、なんか東京ローカルな道なんですよ、カンロクってのはね。だったってことになっちゃってんですけどね、今は。


ま、当時ね、しばらく行きますとね、目黒通りってのと交差するんですが左手にコンクリート製の大きな鳥居が見えてくんです。


あれね、今は見えませんけど、昔は立体交差じゃなくってね、ビルも少なくって、けっこう目立った鳥居だったんですよね。
大鳥神社の鳥居。


酉の市の時なんかはね、わあわあ賑わっているのが横を通るだけでも伝わってきました。


東京の街の景色ってのは、どんどん変わっちゃいますね。イイんだかワルイんだか、そんなこたぁ分かりゃしませんが、とにかくガラッと変わっちゃいます。変わり続けていますね。


この目黒の大鳥神社ってのも江戸時代から人の集まる酉の市を開催して来たらしいんですけど、酉の市、商売繁盛の祭りね、関西方面だとえびす祭り、えべっさんってんでございましょ。
それです。酉の市ね。


神輿がどうのっていうのとは雰囲気の全然違う祭りなんですけどね、盛り上がりますよね。


寒い時期だからってわけでもないと思うんですけど、あっちぃ押され、こっちぃ戻されっていうオシクラまんじゅうですよね。


あたしが何回か行ったのは、目黒の大鳥神社なくって、新宿、花園神社の酉の市。


聞いたこと、ありませんか?
ここも混むんですよ。


昔はね、花園神社でぎゅうぎゅうやって熊手を買ってね、ひと月後、暮れには上野アメ横っていうコースでしたね。
アメ横も押し合いへし合いでした。


アナログ時代の人たちは好きなんですかね、ぎゅうぎゅうやるの。ま、そんなこともないんでしょうけどねえ。


ウィズコロナってことで、またああいう混雑が戻って来るんでしょうかね。


その当時住んでたとこのね、近所の呑み屋さん、小料理屋さんの女将さんがね、1人で行くと人波に流されちゃって行きたい店に行きつけないからってんで駆り出されてね、何年か花園神社の酉の市に通ったんです。


熊手を買うんですよ。それが目的。


熊手ってね、客とお金を掻き込むっていうんで、商売繁盛のお守りなんですってね。


年々大きくしていくっていう習慣があって、売る方もうまいこと考えたもんですが、こまごまといろんなサイズが用意されてんです。


参道の両側にずらりと並んでんです、熊手売りのテント小屋が。
女将さんは店を決めてんですね。そこがまた人気の店で、特に混雑が激しい。
そういう人気の店は参道の奥にあんです。


本気で身体にチカラを入れないとたどり着けませんし、女将さんを案内することなんて出来ませんからね、真剣にオシクラまんじゅうをやったもんです。
体力が有り余ってた時期ですねえ。


コロナ後の飲食店状況っていうのは、コロナ前と大きく変わるっていう予測も出てますけれどね、そのころと比べてみますとね、コロナ前でもけっこう変わってんですよね。


今、東京の個人飲食店で、神棚飾ってるなんてのは、少ないんです。でしょ?
熊手なんて飾ってないでしょ?

 

 

 


女将さんが人波に揉まれながら、コダワリの熊手を買うってのは、その当時ね、どこの店にも、大きな店だろうが、女将さんとこみたいにちっちゃい小料理屋だろうが、どこでもまず間違いなく神棚が祀ってあったもんです。


まあね、なにも飲食店だけじゃなくって、小さな事務所にも神棚が祀ってありましたね。
そういう時代があったんでございますよ。


懐かしく思い出すむきもございますでしょうし、へええ、なんてね、カルチャーショック、みたいな人なんかも多い時代に入ってますでしょうかね。


アナログ時代にはアナログ時代の日本人がアナログに生活していたもんでございますよ。


ジャンルに関係なく、商売がうまくいきますようにっていう、神頼みですね。


熊手を毎年交換するのは、この1年、何とかやって来れましたっていう感謝の思いと、また来年もよろしくお守りくださいっていう願いなんです。神頼みってのは、そういうもんです。


信心深いっていうのか、今の時代からすればナンセンスなぐらいの習慣かもしれませんがね、なんかね、自分よりエライ存在、人智を超えたチカラってのを信じるのは人間にとって悪いことじゃないと思いますねえ。


熊手を買うにはね、仕来たりっていうんですか、独特なやりとりがあったんですよ。


熊手を売っている店によって違うんでしょうけど、女将さんが行っていたのは啖呵売みたいな店でしたね。


オシクラまんじゅうの人混みの中をぐいぐい押し進みながら、その店の兄さんの前へ出ると、さっそく女将さん相手に商売が始まります。


誰が買い手なのか、兄さんにはすぐ分かるんです。
あたしみたいにね、用心棒的について来ている野郎たちも少なくない酉の市の賑わいだったんですね。


「やあ、アネさん。今年はどのくらいのを買いなさるかね。これなんかどうだ。商売繁盛、2万円の大当たり。どうだい? イイ年を迎えましょうや」


「2万円かい? 少し高いね。ちょっと負けとくれ」


「2万円が高いたあ、アネさん、そんなミミッチイこたあ言いっこなしだぜ。だけど、アネさんにそう言われちゃあ、オレも男だ。さあ負けた負けた、1万9千円でどうだ」


「負けた負けたで千円ポッチかい。まだ高いねえ」


「うちの熊手は縁起物、そうそうアネさんの言うことばっかりに従ってちゃあ罰が当たるってもんだが、ええい、ままよ。さあ、負けた負けた、ざざあっと負けて1万6千円でどうだ、さあどうだ」


「よしっ、あたしも女だ。買った買った、その値段でその熊手、買ったあ」


「さあ、皆の衆。見たか聞いたか、アネさん相手にこっちの大負けだ、大負けに負けてのお買い上げだ」


「買った買った。1万6千円。さ、お釣りはご祝儀だよ。酉の市を盛り上げとくれ」


さっと1万円札を2枚差し出すんですね。


そうすると兄さんは、ねじり鉢巻きに一枚ずつ差し込んで、


「やあやあ、お買い上げにご祝儀だあ。こりゃあ暮れからめでてえじゃねえか。商売繁盛。さ、いくぜ、皆の衆。さああ、お手を拝借~」


ってね、ヨヨヨイ、ヨヨヨイ、ヨヨヨイヨイで三々七拍子で〆るんですね。

 

 

これを客ごとにずっと続けんです。ぎゅうぎゅうの人混みの中でね。
あっちこっちの店で威勢のいい掛け声が途切れることがない。


酉の市は商売人同士の、なんだか分かんないようなやり取りが、声を張り上げながらあって、あっちの店、こっちの店から三々七拍子の手締めの音が響いて、次は自分の番ですからね、みんなヤイヤイと声をあげて、押しつ押されつの酉の市だったんですね。


ああいう粋な兄さんたちが戻って来るとイイんですけどねえ。
それに、そうした啖呵売っぽいのに乗っていける粋な女将さんとかもね。


まだ日本にはいるだろうって思うんですけどね。どうなんでしょう。


日本の粋な元気が、ちゃあんと戻って来てくれると嬉しいんですけどねえ。


ヨヨヨイ、ヨヨヨイ、ヨヨヨイヨイ!


おあとがよろしいようで。

 

wakuwaku-nikopaku.hatenablog.com

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【ネット被害者駆け込み寺】被害者救済と加害者抑制 インターネットとの向き合い方

< 浜の真砂は尽きるとも 世に莫迦者の種は尽きまじ 莫迦・幼稚・稚拙では済まされませんです >

総務省「インターネットトラブル事例集 2023年版」にいろいろ案内されていますけれど、日本って昔からこういう国だったのかなって、思っちゃいます。

 

SNSが出てきたから発生している事件とか、そういう取り上げられ方をしていますけれど、SNSコミュニケーションの中で犯罪に加担してしまう人間、特に今は若者、若年層に限られるような報道も見られますけど、必ずしもそうじゃない事実も見られますよね。


つまり、インターネット被害っていうのは無差別に誰でもターゲットになり得るっていう点が最大の問題で、犯罪性のコアの部分は、アナログ時代から変わっていないんじゃないでしょうか。


日本の社会システムを深く掘り下げないと見えてこない、はた迷惑な利己主義を是正する工夫が必要なように思えます。


解決に向けては、かなりディープな問題が根本に潜んでいそうです。
でも、それに対して報道のニュアンスは、軽すぎるんじゃないでしょうかね。


何かといえば分かったようなことを言いたがる傾向が日本のマスメディアにはあるように思います。
そうして分かったような部分を拡大していけば問題解決に近づくでしょ、みたいな考え方が根底にあるんでしょうか。


昔から、つまりSNSがなかった時代でも、「闇バイト」から人生を棒に振ってしまう人間っていうのは、老若男女を問わずいたように思います。

 

 

 


小遣い稼ぎのつもりで、っていう言い訳を司法はどう判断するんでしょうか。


労働対価としてバカ高い報酬っていうことだけで、普通は、一般の人間はですね、犯罪の匂いを嗅ぎつけるんだと思います。


でも、そんなことにはもちろん気が付いているけれども、そこへ跳びこまざる得ない金銭状態になっているからでしょっていう、まるで擁護するような意見も散見されますが、犯罪でもしないとにっちもさっちも、っていう状態になった時点でアウトなわけで、情状酌量の余地はないように思います。


遠い知り合いに、こういう人がいます。


働いていた会社が倒産して、中年での就職活動。
とにかく生活しなくちゃですからね。100を超える応募をしまくって、なんとか次の就職口をやっとみつけたけれども、労働環境が悲惨極まりないブラック企業
しかもその会社が就職1年もしないうちに解散。


借金をしながらさらに就職活動をして、魔がさして犯罪に手を染めることもなく、今また、サラリーマン生活に戻って、借金返済をしながら日常生活を取り戻しつつあります。


彼の場合は、当人のギャンブルだとか、投資の失敗だとか、そういうんじゃなくって、社会的要因での生活苦です。


こんなことを言いますと、そんな人は会社を判断する力がないんでしょ。とかヘーキで言いのけちゃう人もいるんですけれどね、ブラック企業が黒い旗を社旗にしているわけもなく、世の中、一流企業ばかりじゃないんでありますよ。


若年層のSNS犯罪の原因に、そうした共感できる社会的理不尽っていうのは感じられませんですね。


困窮した他の事例を見ても、自分ごととして考えるっていう想像力が欠如している。


他人ごとに関わること。たとえそれが、アタマの中で考えるだけのことにしても、それは拒絶する。


自己責任の範囲とはいうものの、軽く「闇バイト」に応募して、もともと軽薄にしかとらえていないから、気が付いても断り切れなくて、ズルズル入っていっちゃうんでしょうね。


自分で責任なんかとれないと思いますけどね。

 

 

 


フィリピンやタイで大量に捕まっているカケコたちって、日本での生活基盤を打っちゃって犯罪に手を貸している状態なわけで、「闇バイト」に応募するまでの生活に、何か問題はなかったのか。日本から消息を消してしまっても、周りの人たちに対して特に問題にならなかったのはなぜなのか。


人間関係、社会的無関心。そういう深い問題がありそうです。


さらには、こうしたSNS犯罪が特殊詐欺から白昼強盗へ移行した報道がなされると、SNS犯罪を装うかのような覆面グループ強盗を実行したり。


巻き込まれ方、引き込まれ型の犯人もいるんでしょうけれど、やる? やってみようか? っていう友人知人関係のコミュニケーションは、迷惑犯罪動画の投稿と同根の思慮のなさを感じます。


日本の義務教育は十全に役割を果たしているんでしょうか。


昭和の終わりごろから、かなりおかしなことになって来ちゃったようにも思えます。


ま、教育現場はかなり大変みたいなんですけどね。


一般教師の労働時間は、残業ナシの働かせ放題、ブラック企業並みだっていいますし、暴力教師、盗撮教師がいるかと思えば、オレサマ族のモンスターペアレント


根本的な立て直しが教育委員会、教育現場に求められているように思えます。
過激な言い方になりますけど、莫迦を作り出さないためにです。


テストでマルをもらえる「技術」は身に付けて、高学歴っていう称号を手に入れても、人間的に成長以前の段階にとどまっている困ったちゃんっていうのも、ホントに少なくないのかもですよ。


2020年に起きた女子プロレスラー自死の経緯は、テレビを持っていなくとも記事報道で知っていますけれど、真相究明をする気が、番組制作側にも司法にもないようにさえ感じられます。


テレビ番組は、そこに演出が介在している以上、悪意がない無自覚な意図だったとしても、SNSの反響をあおったことは番組の性格上明白なように感じられますが、そういう方向には突っ込みませんね。


テレビ局だけじゃなくって、警察、司法も含めて困ったちゃんの集まりなんじゃないでしょうか。
問題の根本をつかもうとする意欲がどこにも感じられません。


女子プロレスラー自死ほどには大きく取り上げらることはなかったのかもですけど、元「バイトAKB」のラーメン店経営の女性が、不正確な情報を取引先に流されたっていう事件では、2021年から続いていた裁判で2023年に加害者には損害賠償の支払いが命じられました。


事実ではない情報を取引先に流していた男性は、なんの目的で、あるいはどんな原因でそういうことをしたのか、そこの部分は記事報道されていませんでしたが、どうもね、デジタル全般について、司法の判断基準ってものが、時代に呼応して定められていない。追いついていないっていう感じは拭えませんね。


それとは別問題として、裁判って時間も費用も掛かり過ぎです。


50万円っていう罰金刑だそうですが、なんかトンチンカンな判決のように感じます。
ありもしないことをネットを使って、ま、メールらしいですけど、吹聴して50万円ですか?


裁判で要求していた金額が200万円ちょっとだったそうですけど、商売としての損害としてはじき出した金額ってことなのかもですけど、問題のコアはそっちじゃないはずです。
司法も、デジタル社会の進捗に全然追いついていないんでしょうね。


ま、司法はいろんな方面で旧態依然で、かなり前から恐竜化してしまっていますかねえ。


この2つの事件の前、2015年、競輪界のスーパースターがストーカー規制法で逮捕された直後、自殺したっていう驚きのニュースがありました。


ストーカー被害にあっていたのは、フリーアナウンサーの髙橋しげみさん。


逮捕前のストーカーがブログに書いていた「交際していて、お金を取られた」っていう記事もあって、悪いのは女の方だっていうSNSの書き込みが爆発的に増えたんだそうです。
髙橋しげみさんによれば、それは事実ではないってことなんですけどね。


ここで恐ろしいのは、あの女が悪いって書きこんでしまうアンポンタンが1人や2人じゃないってこと。


フリーアナウンサーの仕事を簡単に奪ってしまう放送業界のアンポンタンたちもたくさんいるってことですね。


「殺すぞ」っていう書き込みは脅迫だけど、「死んでくれ」っていうのは脅迫に当たらないっていう警察判断のアンポンタンぶりも完全にデジタル社会から置いて行かれていますよね。


髙橋しげみさんは、仕事を失ったうえに、あまりの誹謗中傷に自殺も考えて悩んだそうですが、四方八方手を尽くして、ネットで誹謗中傷した男たちを次々に特定。


絶対に許せない気持ちで、裁判で直接向き合ったそうです。


一応の解決ではあったものの、相手の男たちの余りの自覚のなさにガッカリ。


虚しさを感じながらも仏教の修行をして、天台宗の僧侶になったそうです。


名前は「髙橋美清(びせい)」


そして「天台宗 照諦山 心月院 尋清寺(じんせいじ)」っていう、ネット中傷被害者の駆け込み寺を2020年に建立したんですね。

 

 

髙橋美清さんは、群馬県大泉町の「SNS等被害者支援ネットワーク会議」メンバーに選出されていて、群馬県では、全国初の「県インターネット上の誹謗中傷等の被害者支援等に関する条例」を施行しています。


実践者です。


この記事みたいに簡単にバーロー、ばーろー、言うような人じゃないです。エライと思います。


髙橋美清さんも、加害者を出さないためのネットリテラシーが大事だって言ってますけど、ホントにその通りだと思います。
ただね、リテラシーを共有するのっていうのがまたね、悲観的になるぐらい難しいんです。


やっぱり義務教育の期間での最低限の言葉の理解。人間の、他人の気持ちを考える習慣を育てて欲しいですね。


人手を確保するためにってことで採用されているような、人間としてどうかしちゃってるセンセはご遠慮願いたいですねえ。


なんだかねえ、このところ、日本っていう国がガタガタと崩れていっているような感覚に陥っちゃいそうです。


髙橋美清さんは、お坊さんになったことも自分の人生って、受け止めているみたいですけど、誰にでも出来ることじゃないでしょねえ。


被害者を出さないためのナレッジじゃなくって、加害者を出さないための教育。デジタル以前の問題として考えないといけないのかもしれません。


ブログはSNSじゃないよ、とかいうことらしいんですけど、ネットコミュニケーションであることは間違いないですし、むしろブログ記事っていうのはメッセージとして、SNSっていうのと比較して、むしろチカラがあるんじゃないかって思っているですけどねえ。


そのチカラが悪い方にいっちゃうっていいますか、ウソ書いちゃ、そもそもダメよねえ。

 

 

 


ブログやってる人、みんなウソは書かない人だと強く思っております。
そうじゃないと、面白くないっしょ!


いろいろネットコミュニケーションで嫌な思いをしている人って少なくないんですよねえ。


インターネットトラブル。いろんな方面でいろいろあって、悲しいことです。


こういうことを考え始めると、気分がズ~ンって重くなっちゃいますけど、精進しませう!

 

【ケロリン桶】そもそもケロリンの正体を知らない 昭和は遠くなりにけり って話

< 焼酎バーでの与太話だったんですけどね 銭湯がホントなくなって来ているんでありますよ >

夜の9時ごろだったんですけど、もうだいぶチョーシの良くなっていた顔見知りのミコちゃんが隣りでした。


ちょっと前まで一緒に吞んでいたヤスコさんが先に帰っちゃったんで、誰かと喋りたくってしょうがない。
そんなタイミングだったんでしょねえ。


「ね、ね。風が吹くとメガネ屋が儲かるっていうの、知ってる?」


桶屋が儲かるっていうのは聞いたことありますけど、メガネ屋? なんか新しいお笑いかなんかですか。


「へへ~、知らないでしょ。教えてあげるね。あのね、風が吹くと女の人のスカートがめくれあがるでしょ。そうすると、よ~く見ようと思って男の人たちがみんな眼鏡を新調するからね、風が吹くとメガネ屋が儲かるのよ。昔からそう言うんだって」


と、マスターが、


「違うよミコちゃん。儲かるのは桶屋でしょ」


「オケヤ。何? オケヤって」


「え? 桶屋って、そりゃ桶を作って売ってる店でしょ」

ジェスチャー入りです。


「オケって、あれ? 洗面器のこと?」


「そうとも言う。ね、ぱうすさん、そうですよね。風が吹くと儲かるのって桶屋ですよね」

 

 

 


ミコちゃんのメガネ屋説は、どこで吹き込まれてきたのか分かりませんが、ま、居酒屋トークの話題横滑りっていうのは、よくあることですからね。

何をきっかけに風が吹くと、っていう話になったのかは知りませんけれど、言葉遊びのタグイなわけで、メガネ屋でも別にイイんでないの、っていう気もします。


風が吹くと桶屋が儲かる、っていうのは、みなさんご存じ。


強い風が吹くと土ほこりが立って、人の目に入る。


土ほこりが目に入ると、目の不自由なヤツが多く出る。


目が不自由になると、三味線で生計を立てるようになる。


三味線で生計を立てるヤツが多くなれば、三味線がどんどん売れる。


三味線がどんどん売れると、三味線に張るネコの皮がたくさん必要になる。


ネコの皮がたくさん必要になると、ネコの数が減ってしまう。


ネコの数が減ってしまうと、ネズミの数が増える。


ネズミの数が増えると、ネズミが桶をかじる。


桶をかじられると、桶を新調するんで、桶屋が儲かる。


まあね、江戸時代ぐらいの言葉遊びみたいなんですけど、目の不自由な人が三味線で生計を立てる、っていうのは、どういう事情なのかちょっと分かりにくいんですけど、按摩だけじゃなくって芸で身をたてるっていうのも多くあったっていうことなんでしょうね。


でまた、ネズミのかじるのが桶に限られるってところも、そうなの? って思います。


ま、江戸時代に、チーズがそこらへんにあるわけはないでしょうから、木製の桶。。。んなバカな!


ってな感じで、風が吹くと、の話が一段落すると、マスターがしみじみ言いました。


「そういえば、昔。毎日銭湯に行ってたんだけど、風呂桶って、なんでケロリンだったんだろう」


ああ、黄色い桶に赤文字でケロリン。ありましたねえ。懐かしいですねえ。


「なにそれ? ケロリンってなに?」


なるほど、銭湯を日常的に使っていた世代って、もう壮年になってますかねえ。


家に風呂があるのが当たり前になって、銭湯に行くっていうのは、大きな湯舟に入るのが目的っていうようなイベントになっている。あるいは1回も行ったことがない世代、っていう方が多いのかもです。


たまにでもイベント的に銭湯に行く人は、たぶんおそらくケロリンを目にしてはいるでしょうけれど、郷愁を誘われるっていうようなグッズにはならないかもですねえ。

 

 

 


「ええ~、なになに? ケロリンってカエル?」


「カエル? カエルの絵は描いてなかったけど、カエルなんですかね?」


って、マスターも知らんのですね。


たしかですね、「頭痛、生理痛、歯痛」って書いてありましたからね、痛み止めなんでしょ。


でも、たとえば今、ドラッグストアでケロリンって見た記憶がありませんね。
風呂桶で名前は見ているけど、実態を知らない、って感じです。


「生理痛と虫歯とかって、そんなになんにでも効くってこと? そんなのある?」


万能の痛み止めってことでしょねえ。バファリンなんかもそでしょ。頭痛、発熱って言ってますよね。万能鎮痛薬。


ケロリンって今でもあるんですかね?」


ん~、今でもって言いますか、銭湯に行ってケロリン桶に毎日会っていたころでも、クスリのケロリン本体に出会ったことはないですね。記憶にないです。
バファリンは使ってましたけどねえ。


ケロリン桶は全国の銭湯に浸透していたけれど、クスリのケロリン自体は販売地域が限定されているんでしょうか。


以前は片頭痛持ちでしたんで、頭痛薬が手離せない時期があったんですけど、ドラッグストアで目にしたのはバファリンアスピリン、イヴ、ナロンエースとか、ありましたし、後発でロキソニンとかが出てきましたけれど、何軒かのドラッグストアでケロリンって見た記憶がないです。


どうですか? ケロリン、使ったことあります?
っていうか見たことあります?


ケロリン桶に書いてあったのは、たしか、内外薬品だったですけど、ケロリンを製造販売している会社って何回か名前を変えているみたいで、今はどうやら「富山めぐみ製薬」って会社みたいです。


調べてみますと、なんとケロリンは1925年に製造販売開始されていたんですねえ。
めっちゃ昔からある鎮痛剤。


銭湯のケロリン桶は1963年から全国展開。


テルマエ・ロマエ」の銭湯シーンの中で、これが日本の銭湯だ! っていう象徴的なアイテムとして登場していたケロリン桶。


銭湯経験世代は、大いに納得ですよねえ。

 

 

最近は、って言いますかだいぶ前からになりますけど、銭湯、行ってません。


1965年ごろには日本全国で2万2000軒ぐらいの銭湯があったそうですけど、2018年には4000軒を割り込んで、ずっと減り続けているらしいですね。


まあね、今はワンルームマンションでも部屋ごとにお風呂、ありますもんね。銭湯って、わざわざ行くっていう場所になってしまっているんでしょうね。


生き残っている銭湯。今でも、あの、黄色いケロリン桶、あるんでしょうかね。


身の回りに、自宅に風呂があっても、今でも銭湯派っていう人がいませんので、確認できないんですけど、どうなんでしょね?


ケロリン桶、現役なんでしょか?


そしたらですね、ネットで販売されているみたいです、ケロリン桶。


自宅の風呂で使っているっていう、ケロリンファンっていうのも少なくないのかもです。


ケロリン桶って関東サイズと関西サイズがあって、関西サイズの方がちょっとばかし小さいんだそうです。
お湯の使い方って、関東と関西で違うってことなんでしょうかね。


なんか、細かい気遣いですねえ。ケロリン


「だからあ~、ケロリンってカエルじゃなかったら、なんでケロリンって名前なの?」


え? 頭痛薬、万能の痛み止めなんですから、服用すれば痛みがケロッと治る。それでケロリンってことなんじゃないでしょうかね。


「きゃははは。ケロッと治っちゃうからケロリン。ウケるう」


「なるほどですね。それにしてもあれですね、ケロリンってクスリ、見たことないですね。関東じゃ売ってないんですかね?」


「あのねえ、男の人たちはねえ、薬屋さん行っても、ちゃんと見てないでしょ。なんかどれでもイイやって感じでしょ。バカでしょ。こんどあたしが見つけてきますよ、ケロリン。だいたい、男たちはねえ……」

 

 

 


居酒屋トークの横スライド。

もうミコちゃんは放っておきましたけれど。


にしてもですね、ケロリン、使ったことあります?
常備薬にしてる人とか、いらっしゃいますか?


銭湯のケロリン桶のほうは、どうなんでしょ?
銭湯派の方々、どですか?

 

【タイトル、この悩ましくも決定的なもの】散文の書き方を考える その10

< 昔のレコードには「ジャケ買い」っていうのがありまして、ジャケットの絵で選ぶんでした >

LPジャケットのサイズは31×31センチメートル。ちょっと大きいのもありましたけど、だいたいそんなサイズ。


アーティストの写真っていうのが多かったですけど、曲全体の、あるいはそのアルバムのメイン曲イメージを描き表した絵画っていうのが印象に残ります。
そのビジュアルイメージが作品の顔なんですよね。


もちろんアルバムにはアルバムタイトルが付いています。
ただ、好きな人にとってはそのタイトルと絵柄が一緒になって作品イメージになっていると思います。


CDも同じっていえば同じですが、ちっちゃいでしょ!


レコードサイズに慣れている人からすれば、ちんまりしていて、物足りない感じがありましたね。


事程左様に、受け取る側にとっても、自分好みに優れた作品には言葉以外のものも含めて、その作品自体をイメージさせるタイトルが付いています。


作品はタイトルで記憶されます。タイトルはその言葉の意味を離れて作品のイメージを包含して記憶されます。


タイトルって、大事です。とっても大事なもの。

 

 

 


閑話休題


2019年9月9日未明、関東を直撃した台風15号は甚大な被害をもたらしました。


ニュースなんかでは経済的な被害として取り上げるのが常ですが、首都圏で暮らす人々の生活そのもの、この時は停電による医療機器の運転不能、猛暑の中でのエアコン運転不能に伴うと考えられる熱中症による死亡事故が伝えられました。天災によるものとはいえ、痛ましいことです。


こうした死亡事故以外にも、吹き荒れた暴風による送電線破損、倒木被害などによってもたらされた通勤通学への影響もかなり大規模なもので、9日朝の通勤事情は理不尽とさえ言える状況を呈しましたよね。


首都圏以外にお住まいの方も、このニュースを覚えておられるでしょう。


もともと、東京圏の通勤事情が人権を無視したような様相であることは国内のみならず、世界的に知られていることではあります。


新宿区、渋谷区、千代田区、港区、中央区の東京中心部には、東京都下、神奈川県、千葉県、埼玉県などから実に数多くの勤労男女が移動して集まってきます。さらにここ10数年、都心に大学が戻ってきていて、学生の数も少なくありません。


朝の品川駅を利用したことのある人なら実感できていると思いますが、電車のホームから階段、改札を抜けて長く広いコンコースを埋める人の流れ、途切れることのない人波。


それが整然と歩いているだけに圧倒されるものがあります。
疲れている朝はウンザリします。


千代田区は住民数が5万8千人なのに対して、昼の人口は85万3千人だっていう総務省のデータがあります。


実に14倍に増えるわけですね。街が高層化していくっていうのも頷けます。
14倍の人口に耐えられるスペース、ないですもん。面積を縦に増やすしか、ね。


首都圏への一極集中は是正すべき問題として取り上げられることが多いですが、解決されるどころか、その集中度合いは増加し続けているのが実情のようです。
アフターコロナ。拍車がかかるのかも。


都市生活者としては止むを得ないと諦めざるを得ない実態ではあるとしても、都心部の昼間人口はとっくに飽和状態に陥っています。


災害とか事故とかでストップしていた電車が運転を再開した直後は、大げさじゃなくって殺人的な混雑状態になります。
朝から救急車で運ばれる人が続出するっていうのが無慈悲な現実です。


無事に目的駅にたどり着けたとしてもオフィス到着前に既に疲労困憊ですよね。


2019年の台風15号がこれほどの被害をもたらすなんて誰が想像したでしょう。


でもまあ、のど元過ぎれば、っていうことではないんでしょうけれど、時日が経過すれば、我々はこうした惨状をも記憶のかなたへ押しやってしまうんでしょうね。


そうしなければ生活していけない。そうすることで日常の暮らしを保っていけるというのが哀しい現実なんでしょう。記憶なんかしない。


最近の地球人。学習能力、低くなってしまっている、のかもですよねえ。


2019年の台風15号。15号っていう名前。その名前を記憶にとどめて置く人がどれだけいるでしょう。


毎年、台風は20号以上来ます。
近い将来、また同じように台風が首都圏に向かって来る場合、警戒の呼びかけに際して、2019年の15号と同程度の、というアナウンスになることが予想されますが、その呼びかけを聞く我々としては、15号? ってなるのが普通で、ほら、千葉県が大規模な停電になっちゃった時の。って説明してくれる記憶力の良い人は少数派ではないでしょうか。


そうしたことについて、気象予報士森田正光さんが、大きな影響をもたらした台風に、気象庁命名基準とは別に、一般レベルで名前をつけよう、って提言されていました。


一般レベルで名前を残して記憶にとどめる事が防災に役立つだろう、っていう趣旨ですね。


多いに賛同しますね。
神羅万象、何物によらず、名前は大事なものだと思います。

 

ちなみに森田さんが提唱していた2019年の台風15号の名前は「東京湾台風」です。
何の異論もございません。


その後、どうなったのか。特に報道を聞き及びませんですけどね。


さて、なにによらずのタイトルの話です。


台風の名前はタイトルっていうのとは違いますが、様々な作品には例外なくタイトルが付けられています。


小説や映画のタイトルは、その作品の魅力の一部であることは間違いありません。


そのタイトルを記憶していることによって、感動した内容を反芻できるのであり、そもそもその小説を読んだり、その映画を観るきっかけは、タイトルからっていうことも多いですよね。


読み終わった小説、観終わった映画について話をするとき、どうしても出てくるのがタイトルです。


なんだっけ、ほら、あの話。去年の一番人気だったあの日本映画、なんていったっけ。っていう会話、誰でも経験しているでしょうし、聞いたことのあるコミュニケーションですよね。
タイトルが出てくれば、思い出せればスッキリするんですけどね。

 

 

 


未知の小説作品とのファーストコンタクトもタイトルです。


本屋さんに入って、まず目に飛び込んでくるものは並べられた本の背表紙、タイトルたちです。
気になるタイトルの本を手にしてみて、初めて内容に入っていく。これが普通ですよね。


ネットでは味わえないアナログの良さ、楽しさの部分。


小説やシナリオには見かけませんが、中には「無題」っていうタイトルの作品があります。


「無題」をタイトルと言ってしまって良いのかどうかは、いろいろな意見があるところでしょうけどね。


「無題」っていうタイトルを目にするのは、展覧会に出展された絵画やオブジェである場合が多いように感じます。街路に設置されたオブジェには特に多い印象があります。
タイトルが無いのに作品が在る、っていう状態なんですが、小説やシナリオ以外ではこれが案外少なくないですよね。


今度は、音楽、クラシックの作品世界を覗いてみましょう。


クラシックのタイトルっていった場合に、どんな印象を持っているでしょうか。


大抵の公立小学校や中学校の音楽室には、クラシック作曲家の肖像画が掲げたあったりして、クラシックを聴かないという人でもベートーベンとかハイドンとか、歴史的な作曲家の顔は思い浮かべることが出来ると思います。写真じゃなくって絵ですけれどね。


強制的、かも知れませんが誰にでも身近であるといえるクラシックの世界ですが、その曲のタイトルとなると、単に「番号」なんじゃないかと思ってしまいます。
台風15号と同じような感じです。


専門家以外にとっては無味乾燥に感じてしまうのも無理のないところではないでしょうか。区別も出来ない。


クラシックの世界では、その楽曲を「絶対音楽」と「標題音楽」とに分けて捉えるのだそうです。


標題音楽っていうのは、人物、風景、出来事、物語なんかを音で表現しているものだそうで、標題、つまりタイトルとしてその対象としたものの名前がついていることが多い、馴染みやすい曲だといえます。


ビバルディの「四季」ムソルグスキーの「展覧会の絵」なんかが有名ですが、数あるクラシック音楽の中ではイメージとして少数派な感じがします。


対して絶対音楽というのは、音楽のための音楽、っていうものなんだそうで、風景だとか、物語だとかを表現しているわけじゃない、ってされています。


何かを表現しているわけではないので、具体的なタイトルをつけてしまうと、そのタイトルによって曲のイメージが固定化されてしまう恐れがあるので、付けない、んだそうです。


で、結局、協奏曲第何番、とかになる仕組みなんだそうでございますよ。


無題じゃないとしても、味気ない感じです。音楽のための音楽、なんやねん! って思います。
やっぱり、人間にとってはタイトルが付いていた方が馴染みやすいですよね。


ショパン絶対音楽、ワルツ第6番変ニ長調op64-1、っていわれても、よほどのクラシックファン、ショパン通でもなければピンとこないと思うんですが、この曲には「子犬のワルツ」っていうタイトルが付いています。


タイトルが付いているなら標題音楽でしょう。


ではあるんですが、この「子犬のワルツ」っていうタイトルは後世の人が勝手に付けたものだそうで、ショパン自身が付けたものじゃない。
従って「子犬のワルツ」は絶対音楽、っていうことになるんだそうです。


ショパンの「雨だれ」も同様に絶対音楽。もちろん、こうして勝手にタイトルを付けられて親しまれているクラシックはショパンの楽曲に限ったことじゃなくって、ベートーベンの「月光」も勝手にタイトルを付けられた絶対音楽だそうです。


音楽評論家か何か知らないが、勝手にタイトルを付けるとは何事か! って思う向きもあるでしょうけれど、楽曲を聞いた人が、じゃれている可愛い子犬を、世界中の音を包み込むかのように地上に訪れている月の光を感じたのなら、そういうタイトルでその曲を呼びたがるのは分かる気がします。


むしろ強く、賛成します。


さらに言えば、世の中にその、後付けタイトルに共感する人が多いからこそ、そのタイトルで呼ばれ、広まり、親しまれて来ているっていうことでもあるんじゃないでしょうか。


後付けの正解、みたいにとらえても間違いじゃないでしょう。


「無題」ってされたオブジェも、何か親しまれるようなタイトルが付けば、それを見る側の意識も変わろうってもんです。たぶん。


以前に彫刻展覧会で、無題の作品が並ぶ中、軽自動車のタイヤほどの大きさで、三日月形の石が幾つか組み合わせてある作品がありました。


作品の載せられた台の隅に小さな白いプレートが置かれ「キコキコ石」とあります。珍しくタイトル有り、です。


たまたま脇に「作者」がニコニコと立っていましたので聞いてみました。


キコキコ石って、なんですかあ。


笑顔を崩すことなく若い作者は答えてくれました。


「ここのね、端っこをこうして」


そう言いながら手前に突き出た三日月の反り返った端っこを、人差し指で下に押しました。
押された三日月型の石は少し、下に動いて戻ってきます。その戻ってきたところをまた軽く押し下げるんです。


その動きを何度かする度に、どこがどう反応しているのか、組み合わされた三日月型の石が、キコキコと音を立てるのでありました。
そのキコキコいう音を聞かせてくれて、作者は満足そうに振り返って、


「ね、聞こえるでしょう。キコキコ石です」


満面の笑みでした。


「お客さんはね、作品に触っちゃいけないの。でもこれは、いいの。だけど、触っていいのはここだけだから、それは誰にも分らないから、自分でね、ここに立って説明してるの。面白いでしょ。わっはっはっは」


一緒に笑いましたともさ。


確かに会場入り口には、お決まりの「作品には手を触れないでください」っていう注意書きがありました。


それがなかったとしても、この危なっかしい感じで組み上げられたキコキコ石に触ろうとする人はいないだろうとは思いましたが、作者としては、石にキコキコ言ってもらわないとタイトルの意味がないということでしょう。
そんなんで、律儀に作品の横に立つ仕儀となったようです。


胸には「作者」っていうネームプレートを付けています。これまた奇抜なタイトル?


「本名を書いたって、誰だか分からないから」


だそうなのでした。これまた、わっはっは、でありますよ。


どうしてキコキコ鳴るのかについても、「作者」にも分からない、んだそうでした。


「そのうち擦れちゃって、鳴らなくなっちゃうだろうけど、そのころにはこの展示会、終わるから」


キコキコ石の「作者」は終始ニコニコ笑顔の人でした。


随分前の出来事ですが、このことが記憶に残っているのは作品のタイトル「キコキコ石」があるおかげだろうって思います。
決して抜群のセンスといえる言葉ではないかもしれませんが、タイトルとしては、ごく普通の言葉で、作品の内容を表していて、忘れられない効果を持っていることは間違いないんであります。「キコキコ石」

 

 

 


小説、シナリオに付けられたタイトルが成功しているかどうかの判断は、作者のみならず、っていうか作者以上に受け手の判断によるものでしょう。


タイトルにも明確な正解なんかないと考えます。


でもまあ、作品の顔であり、いかなる場合でも最初に目につくものがタイトルです。


作品の構想を練る前に決まっていることもあるでしょうし、書き上げた時点で再考することも多いでしょう。
納得がいかない、何となく落ち着かないタイトルのまま、書き進めるっていうことも少なくないことと思います。


どんなケースであっても、あだや疎かにしてはならないもの、それが作品のタイトルなんでしょねえ。


いっぱい悩んで、キコキコ考えて、考えて、納得のいく、素晴らしいタイトルを付けましょう。


散文とかブログ記事とか、好いタイトルって、どんなんでしょうね。考えちゃいます。


自分自身でも愛着が湧いてくるようなタイトルが付けられるとイイんですけどねえ。

 

< いろいろ考えるです >
【考えてから書くか、書きながら考えるか】散文の書き方を考える その1
【神サマの集まり過ぎ?】散文の書き方を考える その2
【オノマトペの実力】散文の書き方を考える その3
【熟字訓と、その周辺】散文の書き方を考える その4
【書くために不可欠な読むチカラ】散文の書き方を考える その5
【マクガフィンって?】散文の書き方を考える その6
【ヨーコさんの秘密】散文の書き方を考える その7
【ビート・ザ・スナフキン!】散文の書き方を考える その8
【フィクションを読む】散文の書き方を考える その9

【リライトとブラッシュアップ】散文の書き方を考える その11

【読む楽しみ、書く楽しみ】散文の書き方を考える その12

【プロット】散文の書き方を考える その13

【面白い小説って、どんなの?】散文の書き方を考える その14

【物語の主人公とはナニモノなのか】散文の書き方を考える その15

【ライターズ・スピリット】散文の書き方を考える その16